死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

『コレクターズ・ハイ』を読んだ

 

 『コレクターズ・ハイ』を読んだ。

 

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「推し活」がテーマではあるのだが、もう少し敷衍して、自身の行為がいかにして正当化されるかを描こうとしたのかなと感じた。推しを理由にどこまで自分の思考を理屈づけられるか、ということである。

 主人公である三木は「なにゅなにゅ」というキャラクターのグッズを収集している。彼女のコンテンツへの向き合い方は、インターネットで観測される多くの人々と近しいように思われ、例えば(本人から見て)マナーの悪いファンに持つ嫌悪感(および客観的に良いファン・悪いファンという区別が付けられると思い込んでいる純粋さ)や、コンテンツから得られる栄養素の解釈などは、個人的に親近感を持つほどである。一方で、どこかずれた感覚をしているなとも思ってしまう原因は、特に森本との関係性にある。

 森本は34歳男性で、やたらとUFOキャッチャーがうまい。三木は森本になにゅなにゅグッズを取ってもらう代わりに、縮毛矯正をしてキューティクル満杯の自分の髪、というかは頭をなでさせるという、妙な契約をゲームセンターで結んだ。そのような対価を指定したのは森本であり、正直ウッとなるような提案だが、三木はこれを受け入れた。

 有り体に言えばちょっと気持ち悪いですねな上記契約を始めとして、森本の人物像は特徴的に描かれ、端的には対人コミュニケーション、特に異性とのコミュニケーションが上手でない。森本いわく、UFOキャッチャーで物を取ること自体に価値を感じているそうなので、取った物は不用品となるのだから、本来は対価などなくてもよいはずである。にもかかわらずこのような提案をしたのは、真に身体的接触を行いたいわけではなく、その場における適切な回答が思いつかなかっただけのようにも思えた。ただ、そのような提案が、ふつう相手方に対してどのように受け止められるか想像できない、ということでもある。そのほか、成人女性に対して「高校生に見える」との容姿評価を褒め言葉として捉えている節がある(若さと幼さを履き違える)とか、急に三木の頭を強くわしづかみにしてしまうとか、そもそも三木を黒髪ロング・女性・なにゅなにゅといった記号でしか認識できていなかったようであるとか、色々と心配になる。 

 とはいえ、対する三木も常識的な感覚(定義は措く)を持っているんだかいないんだか分からないのだが、それはなにゅなにゅによって感覚を狂わされているとの言い方ができるように思われる。森本から上記の条件を持ち出された際、周辺にいた別の客が驚いたように息を飲み、それを三木も認識するのだが、さも何もおかしな条件ではないことを強調するかのように、三木は明確に承諾する。胸や尻を触らせるわけではないのだし、とあっさりしていて、しかしあっさりしているがゆえに、その裏では何か思考回路が歪められている気もするのである。そしてその原因は他でもなく、なにゅなにゅなのではないか。なにゅなにゅを収集するためなら、一定の疑問は横におかれ、自動的に正当化が行われていく。

 そんな三木だが、他人の収集癖に対しては拒否感をあらわにすることもある。厳密に言うと、収集という行為ではなく、収集を行うにあたっての手法についてであり、その理由は正当である。会社の先輩である轟木は、女子高生がカバンにつけているグッズを勝手に撮影して捕まりかけた。美容師の品田は、本人の許可を取らず自分の顧客の髪(どれも同じような長さできれいに整えられた黒髪)を写真に収めてコレクションしている。それらは一種の盗撮行為であり、本来的に糾弾・忌避されてしかるべきであるから、ここに違和感はない。

 ただ、特に三木は品田に対して明確な怒りを表明するのだが、それは自分の髪の写真を勝手に撮られたことではなく、品田による黒髪写真コレクションという集合体の一つに自分が取り込まれてしまったことへの嫌悪感によるものと推察される。この点、読んでいて私はうまく消化できなかったのだが、三木という一個体ではなく、そこから個性を省いて、記号的な要素だけを取り出されたようで、結果として個人を踏みにじられるような感覚に陥った、ということだろうか。

 しかし、コレクションとは概ねそういうものであるようにも思われる。つまり、Aというキャラクターのグッズを収集して祭壇を作るのと、品田の撮影行為(被写体本人に無断で行った点をおけば)はどう違うのだろうか。例えば、同じグッズを複数買いするような場合、Aというだけで収集するような場合、そこには極端に記号化されたAの集合体が生まれることになる。それは品田のコレクションと同じようなグロテスクさを孕むのではないか。端から見れば同一視されてしまうようなものではないか。

 最終盤の三木の行動も、決して褒められたものではないのだが、そこに大きな迷いも見られない。収集行為や記号化のグロテスクさには気付いたはずなのに、止まれないのである。それを抜け出せない沼と見る向きもあろうが、結局誰しも自分の行為にどう理屈・理由をつけるか、言い換えると何を指針とするかを探し求めていて、それが人によって異なるというだけの話でもあるのかもしれない。つまるところ、それはやはり信仰である。

『ハジケテマザレ』を読んだ

『ハジケテマザレ』を読んだ。本当に面白かった。

 

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 文芸好きで金原ひとみ(敬称略)を読んだことがない人は少ないだろうと思うのだが、そう言う私は読んだことがなく、厳密に言うと芥川賞受賞当時に『蛇にピアス』を手に取ったことはあるものの、当時まだ少年だった私は「なんか怖くない……?」と読むのをやめたしまったのである。だって舌にピアス入れるんですよ? 『蹴りたい背中』が学生主人公で相対的に読みやすく、その後に目を通したからかもしれない。以来、金原ひとみの作品が書店で平積みされているのを見かけても、読んでみようとまでは思わず、歳を取っては定期的に読んでみようとは思って見てみると、なんだかセックスか暴力かみたいな話で、やっぱりちょっと読むのしんどいかもと早々に撤退を決め込んでしまうのである。しかし、金原ひとみはインターネットで定期的に話題になり、往々にしてそれは文学賞のコメントからフランクなおもしろお姉さんとして紹介され、やっぱりいっぺん読んだほうがいいよと心の中で積極的な推奨を受けて、いざとページを開いてみるのだが、やっぱりやっぱりそこにフランクでおもしろな物語などなく、やっぱりやっぱりやっぱりしっかりと体力のある時に読まないとあかんでと本を閉じてしまうのであった。

 

 そんな中で昨年に『文学2022』というアンソロジーを読んだ。

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 ここで『ハジケテマザレ』に出会ったのである。コロナ禍により派遣切りにあった真野を主人公として、バイト先のイタリア料理店フェスティヴィタの面々が織りなす物語は、決してないであろう世界を現実感を持ってあるように見せてくれる。お察しのとおり、徹頭徹尾明るくて快活で頭を空っぽにして読める物語とまでは言えず、もとい初っ端から(ほとんど読んだことがないのに勝手にそうであるとする)金原ひとみっぽさに襲われることとなる。例えば冒頭の真野のルッキズムに関するぐんにょりした独白(真野は概ねぐんにょりした独白を繰り広げるのだが)を見ると、

私も前に「かわいい……」と呟き「初見の人ならともかくバイト仲間にまでかわいいって言い続けられる気持ちがわかりますか?」と完膚なきまでに己の無自覚なルッキズムを拒絶&軽蔑されていたため、それ以来うっかり出そうになる「かわいい」を何度も押し止めてきた。男性客に「かわいいね」、「女性客にあの子かわいい……」と嘆息混じりに言われ続けている人の気持ちなど私に分かるわけはないのだけれど、そこは想像で補いごめんと謝った。私だってまじルッキズム撲滅死ねそれに縛られてる私も死ねと常日頃から思っているにもかかわらず、彼女のそばにいるとかわいいの力はすごいと再確認させられるばかりだ。

(p8~9)

というように自意識の荒々しいうねりが押し寄せてくる。もうここで好き嫌いが分かれそうな気もするが、何か面白そうだなと思える人にとってはきっと読んで良かったと思える物語であるだろう。

『文学2022』を読んだ当時、『ハジケテマザレ』は短編完結作品だと思っていた。それだけで完成していたからである。一方で、もっと読みたいといったもったいなさもあったところで、本書を見つけたときには驚いたのである。連作だったんだと喜びを持って手に取り、気づけば読み終えていた。本書は表題作を含む4つの短編から成るが、どれを読んでも面白いのはそれだけをもってなかなか感動的な体験である。

 会話劇とも解される本編は、軽やかな文体でするすると展開し、読者としては時に声を出して笑いながら、そこから感じられる軽さに気持ちよくなってしまう。マナツに思いこがれる横山に対する談として、

「マナツさん的に、横山さんはないんですか?」

「ないって何? この世にないってこと? そういう意味なら別にないけど」

(p67)

と、一蹴する姿には大きく吹き出して笑った。そのほか一部の男性に対する視線が厳しく、それは彼らのあかんところが目立つからでもあるのだが、とはいえそこまで言わんでもと思う一方で、そう言われても仕方がないかと思ったりもする。

 

 このように、会話を読むだけであれば、個性あふれる人々による永遠の青春ハートフルストーリーに見えなくもないが、物語全体に何となく暗い影が落とされていて、その原因はこの世界がコロナ禍にあるということと、主人公かつ語り部である真野が社会的には不安定な立場に置かれていることによる。派遣切りにあってフェスティヴィタへとたどり着いた真野は、30歳も見えてくる中で、客観的には「ぬるま湯」とも称されるフェスティヴィタに居心地の良さを感じているが、将来への不安にさいなまれる。真野自身もそうなのだが、読む側としても、彼ら彼女らのやり取りを笑顔で見ていながら、頭の片隅には、真野は今後どうなるのだろう、どうするのだろうといった心配が常に残っている。

 コロナが蔓延し、緊急事態宣言が出されて、在宅勤務が増えたあの期間において、私が覚えたのは時間が止まったかのような感覚だった。社会全体が停滞しているようで、もう二度とあの頃の日常は戻ってこないのではないかと悲観的になり、心身ともに幾ばくか不安定にもなった。ぬるま湯と呼べる環境は、それに似ているところもあるのではないかと思う。前にも後ろにも進んでおらず、物事が動いていない。

 どこにでもいないような人間が集まるフェスティヴィタにおいて、真野はどこにでもいる普通の人間であり、属性的には読者と最も近い位置にあるだろう。我々が持つような悩みを抱え、我々がそうするように一応はもがこうとする。そして、真野を取り巻く人々は、そんな真野の普通さを肯定する。

 コロナ禍という非日常から社会が立ち戻ろうとするのに合わせて、真野もまたぬるま湯から脱することとなる。結局真野は普通でない人々によって救われたと言えるか。フェスティヴィタの日々自体が非日常の産物であり、それが真野の前から消えたとも捉えられるし、あるいは非日常がついに日常になったとも言えるだろうか。もっと言えば、日常自体がそもそも非日常であるということを訴えかけられているようにも思われた。いつのまにかカレー探求者となったブリュノの、真野に対する適当な一言が端的にそれを表している。

「そうですよ、普通は尊いし、普通は貴重だし、普通はむしろ普通じゃありません」

(p204)