死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

ハッカドールに見た面影

 埼玉県の某所にて、とある女性声優の髪型をめぐる野球戦、通称よぴぴ野球でオタクたちがしのぎを削ったその翌日のこと。東京・原宿でハッカドール最後のイベント、『ハッカドール THE めもりあるぱ~てぃ!!!』が開催された。いや、例によって最後かどうかは分からない。良くも悪くも、一度生まれたIPが死ぬことはないからだ。もちろん、展開がされる・されないの話はある。しかし、アニミズム的と言うのが適切かは分からないけれど、一度命を宿した空想的存在は、いつまでも生き続けるものだと私は思う。

 正直に言って、私とハッカドールの間に深い縁はない。おぼろげながら思い出せば、リリース初期にインストールはしたものの、やたらとまとめサイトが挙げられてくるのに辟易し、プッシュ通知の音声にビビり、特に活用もせずまま、いつの間にかアンイストールしていた。スマホでニュース記事を見る習慣がなかったせいもある。その後は、精々KUROBAKOが話題になった際に、アニメを見た程度である。だから、メインキャラクタの3人をWUGのメンバーが演じていることなど知らなかったし、そもそもその頃はWUGもろくに知らなかった。

 こんな関わり方だったから、チケットがとれるとは思っていなかった。この点、オカルト的だが、私は全てご縁の有無で捉えている。主義思想というかは、そう考えたほうが単に楽だからだ。ご縁があればチケットは手に入るし、なければ手に入らない。もちろん、世の中には、予約開始時間に画面に張り付かなければならないものとか、チームを組んで連番予約しないといけないものとか、あとは転売屋の攻勢等、どうしたって得られないものある。そういうのはもう、初めからご縁がないのだ。WUGの最終公演でさえ、もし外れていれば諦めただろう。いや、これはさすがに言い過ぎかもしれない。

 結果として、チケットは当たった。ガチ勢に失礼と思って、グレードの低い方を選んだのが功を奏したのか。何であれ、当たったということは、ご縁があったということだ。なんとも幸せな話である。そんなわけで私は、会場の原宿クエストホールに向かったのだった。

 

 強烈な日差しの下、原宿駅周辺はどうしようもないほど人に溢れかえっていた。『原宿表参道元氣祭』の影響らしい。よさこいの季節は夏なんだな。昨日の今日でそんなことを知った。観光客と衣装に身を包んだ人に紛れて、ハッカやWUGのTシャツを着ている人がいる。こういうオタクと日常が入り混じった光景を見るのは久しぶりで、少し懐かしく感じられた。

 

 客席に座り、ふと前方を見ると、撮影録音禁止お兄さんの姿が目に入った。撮影録音禁止お兄さんとは、その名の通り、「撮影・録音禁止」と書かれた札を持ってステージ前に立っていたり、左右に移動したりしているお兄さんである。WUGのツアー参加時には毎週のように出会っていた。もちろん同一人物ではなく、概念的な存在であるが、ここでもまた私は懐かしさを感じていた。

 

 開演すると、壇上に司会のDeNA・岡村直哉さん。そして、高木美佑さん、奥野香耶さん、山下七海さんの3人が登場した。

 3人の姿を捉えた瞬間、なぜだか私の目には涙がこみ上げていた。流してはいない。心の充足とともに、ジワっと瞼の裏が濡れていく。何の感情なのかと言えば、それは嬉しさであり、喜びであり、やはり懐かしさであった。

 

 5年間の歴史を振り返りながら、ゆるやかに時間が流れていく。第1部のトークコーナーが終わり、第2部のミニライブコーナーが始まろうとしたその時、スクリーン上に現れたのはハッカドールの3人だった。彼女たちはおもむろに手紙を読み始めた。客席にいる、私たちに向かって。ああそうだったなと、想いの丈を私たちにぶつける三人を見ながら、私は3月8日に見た光景をそこに重ね合わせていた。コンテンツに区切りがつくとはこういうことだった。

 その後、画面の中の3人と入れ替わるようにして現れた3人を見て、私はどうしたものかと思っていた。3人の名前を呼べること。そして、歌が、踊りが、フォーメーションチェンジが、笑顔の3人のその全てが、私の涙腺を殴っていた。しかし、それはよくないことだと思った。ここはハッカちゃんの場であるのだから。私の持った感情は場違いで、ハッカちゃんのファンに対しても失礼である。だから私は笑うことにした。楽しいと言って、笑うことにした。そしてそれもまた、嘘偽りのない感情だった。

 

 終演後、3人からのお見送り会があった。いつぞやと同じく、またもやお見送られ会である。ハッカドールというコンテンツは私を泣かせに来ていた。

 SSAのときは2秒で7人だったが、今回は2秒で3人。理論的には、一人あたり倍の時間交流できるはずだが、特にそんなことはなかった。流れ星に願いを伝えるがごとく、早口に「ありがとうございました」と3回発したままの足で、私は会場を後にした。

 

 来た時よりも日差しは心持ち弱くなっていて、原宿駅周辺の人の波も、ほんの幾分かましになったように思えた。雑踏に紛れながら、駅のホームへと足を進める。品川方面の電車を待ち、徐々に心身が日常へと戻される過程で、ふと感情が湧き上がった。不意をつかれた私は、今度こそ涙を流した。

 結局私はまだ、7人の面影を追いかけている。

舞台上からもらう活力と勇気と熱と

 2019年8月24日。埼玉県の某所にて、とある女性声優の髪型をめぐる野球戦、通称よぴぴ野球でオタクたちがしのぎを削っていた頃、時を同じくして名古屋では、にっぽんど真ん中祭が開催されていた。

日本のど真ん中、真夏の名古屋を舞台に繰り広げる日本最大級の踊りの祭典、にっぽんど真ん中祭り(通称:どまつり)。国内外から集結する約200チーム20,000人が地域色豊かな踊りを披露する、誰でも参加できる市民参加型の新しいスタイルのお祭りです。

引用元:公式サイト

 正直に言えば、前日の時点までその存在を知らなかったぐらいで、かつ人が多そうだなあと、特に行く気もなかった。しかし、ネットを通して伝わってきたオタクたちの野球熱に浮かされ、いても立っても居られなくなった私は、火照る身体を抑えるべく、ひとっ走り会場へ向かうこととした。

 会場付近に近づくにつれ、往来する人は少しずつ増えていった。メインの会場だけではなく、周辺では路上ライブをする若者もおり、通り一帯が活気に包まれていた。

 私が会場に到着した頃は、丁度ファイナルシード決定戦*1の途中であり、既にステージ近くの観客席は人で溢れていた。観覧当日券は売り切れており、また買えたとしても汗だくの身体でそうするのは躊躇われたため、少し離れたパブリックビューイングスペースで観覧することにした。

 生まれて初めてよさこい的な演舞を見たのだが、素人目にはどのチームも迫力があって素晴らしかった。ジャンル的にはチアリーディングと近しく、大人数が舞台上で入り乱れ、随所で掛け声が発せられる。端熱さと活力がある。一人一人からほとばしる熱が渦巻いているのだ。

 多くのチームは、演舞のテーマに自分たちの地元を用いている。だから掛け声が「名古屋! 名古屋! 名古屋! 名古屋!」だったりする。どれだけ好きやねん、と思いもするが、祭の趣旨自体がそういうものらしいので、これでいいのだろう。何よりも郷土愛を持つのは良いことだ。

 舞台上では、五分に一組のペースで次から次へと演舞が始まるため、延々と見ていられる。気がつくと一時間以上立ち見していた私は、そもそもそんなに長居するつもりではなかったことを思い出して、そろそろその場を離れることにした。

 帰るついでに、折角だから生の演舞をチラ見していこうと思い、舞台周辺の通路に向かった。歩きながら舞台を見ようという寸法だ。行ってみると、皆考えることは同じなのか、通路を何度も行ったり来たりしている人や、通路の隅っこで立ち止まって観覧している人などがいた。要はキャパオーバーしているのだろう。「立ち止まらないでください」と注意する、運営さんたちの声が辺りに響いていた。

 通路を歩きながら横目に見る舞台は、それはそれはエネルギーに満ち溢れた空間だった。そして、舞台上で動き回る人々を見て私は、人生において、この人たちと関わることはまずないのだろうなと思った。

 もちろん、実際のところ「ない」なんてことはない。既に今の会社や取引先に、こういった趣味を持った人はいるかもしれないし、これからだって同じことだ。しかし、言いたいのはそういうことではない。一人の陰の者として、このような陽の人たちと関わることはそうないだろうなあという、そんな漠然とした話である。思い返せば大学時代にも、よさこいに全力投球する子たちを構内でよく見かけたが、結局卒業するまでの間に、個体としての彼/彼女らとの間に交流を持つことはなかった。

 だから、私がライブや舞台を見に行こうとするのは、普通に生きている上では一生出会わない類の人間に会いたいからなのかなと、そんなことを思った。プロフェッショナルとしてのステージ上の人間と、私自身の道が交差することはない。しかし、ないからこそ、そこに近づこうとするのではないか。

 ステージの対角線上には、審査員らしき方々が、例によっていかめしい顔をして座っていた。どういうポイントを見ているのかは分からないが、彼/彼女らのさじ加減で、舞台上で踊る人間たちの人生が変わる。いや、さすがにそれは言い過ぎかもしれない。しかし、みんな今日この日のために、一年間を通して戦ってきているのであろう。であれば、演舞がどのような評価を得られるかは、やはり人生そのものを評価されるに等しいのではないか。それはしんどいなあと私のような人間は思う。でも、そこで戦おうとする人たちがいる。そのような事実に、私は勇気をもらうのであり、何度も会いに行こうとするのだろう。

 何かぼやっとした納得を一つ得た私は、背中に感じる鳴り止まない歓声に、心地よい疎外感を覚えながら駅へと向かった。さあ、明日はハッカドールだ。舞台上で戦うあの三人に、また会いに行こう。

*1:勝つと翌日の最終審査のシード権が得られるらしい