死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

舞台上からもらう活力と勇気と熱と

 2019年8月24日。埼玉県の某所にて、とある女性声優の髪型をめぐる野球戦、通称よぴぴ野球でオタクたちがしのぎを削っていた頃、時を同じくして名古屋では、にっぽんど真ん中祭が開催されていた。

日本のど真ん中、真夏の名古屋を舞台に繰り広げる日本最大級の踊りの祭典、にっぽんど真ん中祭り(通称:どまつり)。国内外から集結する約200チーム20,000人が地域色豊かな踊りを披露する、誰でも参加できる市民参加型の新しいスタイルのお祭りです。

引用元:公式サイト

 正直に言えば、前日の時点までその存在を知らなかったぐらいで、かつ人が多そうだなあと、特に行く気もなかった。しかし、ネットを通して伝わってきたオタクたちの野球熱に浮かされ、いても立っても居られなくなった私は、火照る身体を抑えるべく、ひとっ走り会場へ向かうこととした。

 会場付近に近づくにつれ、往来する人は少しずつ増えていった。メインの会場だけではなく、周辺では路上ライブをする若者もおり、通り一帯が活気に包まれていた。

 私が会場に到着した頃は、丁度ファイナルシード決定戦*1の途中であり、既にステージ近くの観客席は人で溢れていた。観覧当日券は売り切れており、また買えたとしても汗だくの身体でそうするのは躊躇われたため、少し離れたパブリックビューイングスペースで観覧することにした。

 生まれて初めてよさこい的な演舞を見たのだが、素人目にはどのチームも迫力があって素晴らしかった。ジャンル的にはチアリーディングと近しく、大人数が舞台上で入り乱れ、随所で掛け声が発せられる。端熱さと活力がある。一人一人からほとばしる熱が渦巻いているのだ。

 多くのチームは、演舞のテーマに自分たちの地元を用いている。だから掛け声が「名古屋! 名古屋! 名古屋! 名古屋!」だったりする。どれだけ好きやねん、と思いもするが、祭の趣旨自体がそういうものらしいので、これでいいのだろう。何よりも郷土愛を持つのは良いことだ。

 舞台上では、五分に一組のペースで次から次へと演舞が始まるため、延々と見ていられる。気がつくと一時間以上立ち見していた私は、そもそもそんなに長居するつもりではなかったことを思い出して、そろそろその場を離れることにした。

 帰るついでに、折角だから生の演舞をチラ見していこうと思い、舞台周辺の通路に向かった。歩きながら舞台を見ようという寸法だ。行ってみると、皆考えることは同じなのか、通路を何度も行ったり来たりしている人や、通路の隅っこで立ち止まって観覧している人などがいた。要はキャパオーバーしているのだろう。「立ち止まらないでください」と注意する、運営さんたちの声が辺りに響いていた。

 通路を歩きながら横目に見る舞台は、それはそれはエネルギーに満ち溢れた空間だった。そして、舞台上で動き回る人々を見て私は、人生において、この人たちと関わることはまずないのだろうなと思った。

 もちろん、実際のところ「ない」なんてことはない。既に今の会社や取引先に、こういった趣味を持った人はいるかもしれないし、これからだって同じことだ。しかし、言いたいのはそういうことではない。一人の陰の者として、このような陽の人たちと関わることはそうないだろうなあという、そんな漠然とした話である。思い返せば大学時代にも、よさこいに全力投球する子たちを構内でよく見かけたが、結局卒業するまでの間に、個体としての彼/彼女らとの間に交流を持つことはなかった。

 だから、私がライブや舞台を見に行こうとするのは、普通に生きている上では一生出会わない類の人間に会いたいからなのかなと、そんなことを思った。プロフェッショナルとしてのステージ上の人間と、私自身の道が交差することはない。しかし、ないからこそ、そこに近づこうとするのではないか。

 ステージの対角線上には、審査員らしき方々が、例によっていかめしい顔をして座っていた。どういうポイントを見ているのかは分からないが、彼/彼女らのさじ加減で、舞台上で踊る人間たちの人生が変わる。いや、さすがにそれは言い過ぎかもしれない。しかし、みんな今日この日のために、一年間を通して戦ってきているのであろう。であれば、演舞がどのような評価を得られるかは、やはり人生そのものを評価されるに等しいのではないか。それはしんどいなあと私のような人間は思う。でも、そこで戦おうとする人たちがいる。そのような事実に、私は勇気をもらうのであり、何度も会いに行こうとするのだろう。

 何かぼやっとした納得を一つ得た私は、背中に感じる鳴り止まない歓声に、心地よい疎外感を覚えながら駅へと向かった。さあ、明日はハッカドールだ。舞台上で戦うあの三人に、また会いに行こう。

*1:勝つと翌日の最終審査のシード権が得られるらしい