死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

春の訪れとともに大腸カメラで飢えを知る

 春はいいよなあ、とつぶやきながら歩いて思い出すのは志村けんだが、こんな変なおっさんはおらんやろと思っていた幼少期の私は、よもや自分自身がそのようなおっさんになっているとは思いもよらないだろう。とはいえ、他人に絡むわけではないので、迷惑度合いでは全く異なるし、私はただ桜並木を歩き、ようやく迎えられた春に、安心と敬意から来る感情をもって、気持ちニコニコしながら歩いているだけである。ただ、そのような姿も、幼少期の記憶に残っている別のおっさんと瓜二つであるから、結局当時の私は今を見て驚くのかもしれない。

 どのような街にも、規模はともかく一つぐらいは桜の名所があるものだろう。我らが地元にも、この季節が来ると人が集まる場所がある。花を愛でるのは精神的にもよいと聞くが、ここに来れば、論文を読み漁らなくとも、それが事実であると分かる。私のようなおっさんから家族連れから何から何まで、朗らかな顔で桜を見上げているのは、きっと春の陽気のおかげでもあるだろう。あるいは、一年を無事に過ごせたことへの安堵かもしれない。新年を迎えるのと同じく、冬と春との間を一つの区切りとして、私はこの一年を乗り越えられたと一息をつくのである。春はいいよなあ~いいよなあ。

 そうこうしているうちにどこに到着したかと言えば、消化器内科である。春の訪れとともに赴くにはいささか物々しいが、かねてからの悩みの種であった腹痛に向き合う時が来たのであった。思い起こせば半年前、腹が痛い、腹が圧迫されている、腹が絞られている等の症状が現れ、もろもろの服薬を行ったが快方に至らず、流石に長いなという不安からカメラを飲み込み、入れることにしたのである。つまるところ胃カメラと大腸カメラである。

 どちらも初めてではなく、最近でも経験がある。だからといって慣れるわけではない。鎮静剤は使ってもらう派であるが、寝てる間に苦痛なく検査してもらえると思いきや、大体胃からカメラが抜き取られる時に目が覚めて直後絶望を味わう。これまでのところ覚醒確率100%である。そもそも鎮静剤で意識が落ちるまでも結構怖いものだ。

 桜を見てから行くことにしたのも、少しでも安心感を得たいからだった。穏やかに空気に触れていけば、この不安も紛れるのではないか。その目的は半分達成されたが、半分未達に終わった。空腹のせいである。

 とにかく腹が減っている。腹減りである。大腸カメラを受けるには、腸内を空っぽにしなければならない。前日は検査食のみを口にして、それらは普通においしいものの、いかんせん量が少ない。もちろん、いくら腹に入れても、検査までに全部出さなければならないのだから、食べたら食べただけ面倒くさいのである。ならば、最初から食べる量を絞った方が良い。非常に理にかなっている。しかし、理性と本能が時に相反するのが人間であり、今の私はただ腹が減っていた。

 飽食の時代と言われて久しい世の中、運良く飢えから縁遠い生活を遅れている私にとって、解決できない空腹はあまりにも辛い。単に空腹であることに加え、食べたくても自分の意志ではどうしようもできないのだ。それでも気力を保てたのは、終わりが見えているからである。検査を受けさえすれば、何だって食べることができる。バーキンでもマクドでもモスでも何でも好きなものを選べばよい。しかし、それができない人はどうなるだろうか。そのような当たり前の辛さを、私は大腸カメラを通じて考えていた。

「終わりましたよ」の声で目を覚ますと、胃カメラが終わり、これから大腸カメラを入れられるところだった。文字通り空っぽの腸内の中を、カメラが奥へ奥へと進んでいく。進んだカメラが今度は後ろへ戻っていく。固形物が一切ない腸内。何もないことを確認するのにも意味がある。何もない腸を見て、うとうとしながら、腹が減ったと感じていた。

 ピロリ菌がいたとは思えないほどにきれいな胃と、いたって健康な腸。サプライズとして痔核があったが、今のところは特に気にする必要はないらしい。ただし座り過ぎはよくない、とはどこかで聞いた話である。こうして、原因不明の腹痛は、カメラを検査後もなお原因不明であるのだが、仕事が落ち着くにつれてマシになっているところからすると、結局ストレスのせいである、という結論に落ち着くのだろう。やはり労働は悪である。

 少なくとも胃と大腸については安心してよいとすれば、ともあれ新年度から大病を患うイベントは避けられたのであり、それは大変ありがたいことである。病院を出て、そういえばわが街のこども食堂にも寄付などできるのだろうかと考えながら、検査後の痛みを伴いつつ、ルンルン気分でちょっと高めのカツサンドを買っちゃったりして、桜の下を歩き、暖かい風に吹かれ、春はいいよなあとつぶやいたのだった。

 

『コレクターズ・ハイ』を読んだ

 

 『コレクターズ・ハイ』を読んだ。

 

bookclub.kodansha.co.jp

 

「推し活」がテーマではあるのだが、もう少し敷衍して、自身の行為がいかにして正当化されるかを描こうとしたのかなと感じた。推しを理由にどこまで自分の思考を理屈づけられるか、ということである。

 主人公である三木は「なにゅなにゅ」というキャラクターのグッズを収集している。彼女のコンテンツへの向き合い方は、インターネットで観測される多くの人々と近しいように思われ、例えば(本人から見て)マナーの悪いファンに持つ嫌悪感(および客観的に良いファン・悪いファンという区別が付けられると思い込んでいる純粋さ)や、コンテンツから得られる栄養素の解釈などは、個人的に親近感を持つほどである。一方で、どこかずれた感覚をしているなとも思ってしまう原因は、特に森本との関係性にある。

 森本は34歳男性で、やたらとUFOキャッチャーがうまい。三木は森本になにゅなにゅグッズを取ってもらう代わりに、縮毛矯正をしてキューティクル満杯の自分の髪、というかは頭をなでさせるという、妙な契約をゲームセンターで結んだ。そのような対価を指定したのは森本であり、正直ウッとなるような提案だが、三木はこれを受け入れた。

 有り体に言えばちょっと気持ち悪いですねな上記契約を始めとして、森本の人物像は特徴的に描かれ、端的には対人コミュニケーション、特に異性とのコミュニケーションが上手でない。森本いわく、UFOキャッチャーで物を取ること自体に価値を感じているそうなので、取った物は不用品となるのだから、本来は対価などなくてもよいはずである。にもかかわらずこのような提案をしたのは、真に身体的接触を行いたいわけではなく、その場における適切な回答が思いつかなかっただけのようにも思えた。ただ、そのような提案が、ふつう相手方に対してどのように受け止められるか想像できない、ということでもある。そのほか、成人女性に対して「高校生に見える」との容姿評価を褒め言葉として捉えている節がある(若さと幼さを履き違える)とか、急に三木の頭を強くわしづかみにしてしまうとか、そもそも三木を黒髪ロング・女性・なにゅなにゅといった記号でしか認識できていなかったようであるとか、色々と心配になる。 

 とはいえ、対する三木も常識的な感覚(定義は措く)を持っているんだかいないんだか分からないのだが、それはなにゅなにゅによって感覚を狂わされているとの言い方ができるように思われる。森本から上記の条件を持ち出された際、周辺にいた別の客が驚いたように息を飲み、それを三木も認識するのだが、さも何もおかしな条件ではないことを強調するかのように、三木は明確に承諾する。胸や尻を触らせるわけではないのだし、とあっさりしていて、しかしあっさりしているがゆえに、その裏では何か思考回路が歪められている気もするのである。そしてその原因は他でもなく、なにゅなにゅなのではないか。なにゅなにゅを収集するためなら、一定の疑問は横におかれ、自動的に正当化が行われていく。

 そんな三木だが、他人の収集癖に対しては拒否感をあらわにすることもある。厳密に言うと、収集という行為ではなく、収集を行うにあたっての手法についてであり、その理由は正当である。会社の先輩である轟木は、女子高生がカバンにつけているグッズを勝手に撮影して捕まりかけた。美容師の品田は、本人の許可を取らず自分の顧客の髪(どれも同じような長さできれいに整えられた黒髪)を写真に収めてコレクションしている。それらは一種の盗撮行為であり、本来的に糾弾・忌避されてしかるべきであるから、ここに違和感はない。

 ただ、特に三木は品田に対して明確な怒りを表明するのだが、それは自分の髪の写真を勝手に撮られたことではなく、品田による黒髪写真コレクションという集合体の一つに自分が取り込まれてしまったことへの嫌悪感によるものと推察される。この点、読んでいて私はうまく消化できなかったのだが、三木という一個体ではなく、そこから個性を省いて、記号的な要素だけを取り出されたようで、結果として個人を踏みにじられるような感覚に陥った、ということだろうか。

 しかし、コレクションとは概ねそういうものであるようにも思われる。つまり、Aというキャラクターのグッズを収集して祭壇を作るのと、品田の撮影行為(被写体本人に無断で行った点をおけば)はどう違うのだろうか。例えば、同じグッズを複数買いするような場合、Aというだけで収集するような場合、そこには極端に記号化されたAの集合体が生まれることになる。それは品田のコレクションと同じようなグロテスクさを孕むのではないか。端から見れば同一視されてしまうようなものではないか。

 最終盤の三木の行動も、決して褒められたものではないのだが、そこに大きな迷いも見られない。収集行為や記号化のグロテスクさには気付いたはずなのに、止まれないのである。それを抜け出せない沼と見る向きもあろうが、結局誰しも自分の行為にどう理屈・理由をつけるか、言い換えると何を指針とするかを探し求めていて、それが人によって異なるというだけの話でもあるように思う。つまるところ、それはやはり信仰である。