死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

結局Wake Up, Girls!の何が私に刺さったのか―WUGちゃんと過ごした半年間の総括と回顧―

 本格的に冬到来、年末進行で忙しくなる今日このごろ。こんなときはWUGちゃんのことを考えるのがぴったりですね。というわけで本記事は『Wake Up, Girls! Advent Calendar 2018』12日目の記事となります。昨日はふり〜だむさん(@FreedomCombat)がご担当でした。なお明日は湖底人さん(@koteijing)です。
 
 本記事の趣旨としては、いよいよHomeツアーのPart2も終りを迎えんとしているこのタイミングで、自分とWUGちゃんとの出会いを思い出しつつ、結局WUGちゃんの何がそんなに自分に響いたのか、そして結果としてWUGちゃんから何をもらったのかを書いておこうというものになります。以下、声優ユニットとしてのWUGについての言及が大半を占め、特に意味もなく長文かつ乱文というところも併せ、予めご容赦くださいますと幸いです。

 

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(岩手公演の帰りに)

 前段

 「アイドルとは物語である」とは丹下社長の言葉ですが、これは別にWUGに限った話ではなく、ある時期からアイドルには一定の物語性が求められるようになり、提供する側もその点を意識して活動を展開するようになったとの言説を耳にしたことがあります。(相変わらず明確なソースは思い出せない)
 
 自分の幼い頃を思い返しますと、ASAYANという非常に有名なテレビ番組があり、これはアイドルデビューだけを目指す内容ではなかったと思いますが、ともあれ、かのモーニング娘。を筆頭に、そこから多くのスターが誕生したと記憶しています。オーディション時点から放送されるという点で、そもそもどこまでガチな内容だったのか私は知らないのですが、いずれにせよ近年でもアメリカン・アイドルのような番組が流行したことも考えますと、世の多くの人は根本的に物語性を持つものが好きなのであって、かつそれが創作ではないと感じられる(この世に魅力的な物語が実在すると信じられる)ものを求めるのだなあと思う次第です。
 
 WUGという声優ユニットも御多分に洩れず、そのような物語性を持つ世界を一から作りあげようとしたコンテンツであったのだと認識しています。構造としてはこれまでに他のコンテンツが歩んできた道から大きく外れるものではないのでしょう。ところで、私は過去から一消費者として、いわゆるオタクのコンテンツを楽しんではいましたが、WUGちゃんに出会うまではライブやイベントの類に積極的に参加するようなことは(ゼロではないけど)ありませんでした。つまり、これまでの生涯を通じて、「とにかくこの人たちを追いかけたいんや!」とまで胸に突き刺さるほどのものと出会った経験はなかったのですが、結果的にWUGちゃんはそのような存在になっているところ、自己分析も兼ねてなぜそうなったのかをもう一度考えてみようと思います。

 

WUGとの出会いをもう一度

 過去に自分で書いたところによれば、私がWUGという存在を明確に意識し始めたのは昨年末あたりのことだったようです。「明確に」というのは、厳密に言うとそれまでに田中美海のFIVESTARSや、ヨルナイトヨルナイトの出演回や、各種のニコ生が間に挟まり、メンバー各々について先に出会い、それに併せてWUG自体への興味も高まっていったということです。言い換えれば、私は三次元からWUGの世界に入った人間であり、ライブに行くまではWUGのアニメを少しでも見たことはありませんでした。
 
 もちろん、WUGは定期的に良くも悪くも話題になることがあったので、作品の存在自体は認識していたものの、ネット上では(どちらかというと)批判めいた意見を見ることが多く、またライブについても「厄介なイベンターが多い」等々の苦言が呈されていたように思います。私はそういった評価を聞いて「なんだか怖い世界だなあ」と、他人事として処理していたのでした。

 

WUGの何が私に刺さったのか

 そんなところから、どうしてライブに赴き、さらにはその感想を毎度書いてしまうようになったのか。換言すれば、WUGの何が自分に刺さったのか。考えてみようなどと言いつつ、実のところよく分かってはいません。ただ、WUGちゃんの持つ様々な要素が、ひたすらに、今の自分にとって「丁度よかった」のだと、この言葉が持つ否定的な意味をあえて無視した上で、そのように一言で表してしまうのがそれこそ丁度よいように思っています。
 
 「様々な要素」を具体化すれば大きく3点になると思われます。すなわち、①出会ったタイミング ②WUGちゃんたちのバックグラウンド ③WUGの規模感の3点です。ただ、後述しますが、私が感じる「丁度良さ」がWUGというコンテンツにとって望ましいものであったのかは疑問に思わざるを得ません。だとしても、少なくともそうであったからこそ私は今ワグナーなのであり、非常に自己中心的な見方をすれば、WUGがそのようなコンテンツでよかったと思う自分がいるのも事実なのです。
 
〔WUGと出会ったタイミング〕
 「もっと早くWUGに出会っていれば」と思うことがある一方、勃興期に今と同じような気持ちでWUGと向き合うことができたかは非常に怪しいところです。より端的に言えば、サラリーマンになってからWUGを知ったからこそ今の状況があるのだと感じています。
 
 この点は私が初めて『SHIROBAKO』を視聴したときと同じ感覚です。話がずれて恐縮ですが、私は『SHIROBAKO』をリアルタイムでは追いかけておらず、働き始めてから視聴しました。それなりに夢と希望があった学生時代にではなく、会社の下っ端として働き始め、世の中が自分の思い描いていた姿よりは幾段か下であることを認識し、かつ自分がそのような状況でまごつく程度の存在でしかないことを思い知った上で、要はよくある青臭い感情といいますか、否が応でも自分が「何者」でもないことを実感していく中で視聴したからこそ、より胸に響く物があったと思うわけです。大小はあれどあらゆる人に物語があって、各人がそれぞれに悩みつつも、自分自身で道を選んでいく姿を見て、自分も頑張らなあかんなと、そういう気持ちになれたわけです。
 
 「何者」との言葉は私達の世代に限らず、特にインターネットにおいてはよく使われている言葉かと思います。「何者」が実際のところどういう存在であるのかには明確な共通見解があるわけでもないように見受けられるところ、私は島田真夢の言葉が一つの定義となるように思っています。

 

誰かを幸せにするということ。それには3つのタイプがあると思う。
世の中の多くの人を幸せにできる人。
自分の周りの身近な人を幸せにできる人。
それと、自分を幸せにできる人。

 

 すなわち、「何者」とはこれら3つを全て兼ね備えている人とも定義できるのではないかと思うわけです。正直なところ、3つの内一つでも満たせれば人生としては上出来でしょう。そして、もちろん何を「幸せ」とするのかにもよりますが、自分の身近な人や自分自身を幸せにするのはまだ何とか可能であるように思うものの、世の中の多くの人を幸せにするというのは、特に私のような平々凡々な人間からすればかなり難しいと言えます。多くの人を、しかもそれこそ多義的な「幸せ」にしなければならないわけですから、ほか2つに比べてハードルはどんと高くなるように思うのです。
 
 そう考えると、私がWUGちゃんに引き込まれたのは、自分が社会人として燻った状態のなか、初めて行ったGreen Leaves Fesで、彼女たちが「世の中の多くの人を幸せにできる人」であることをまざまざと見せつけられたからだったのだろうと思います。私がまごついている一方で、これほどに大きな幸せを生み出せる人たちがいる。しかもそれが同世代の人間(年少組を自分と同世代と称するのは正直失礼にあたりそうですが)である。私にとっては、それがあまりにも衝撃的だったのです。
 
〔ワグナーはWUGなのではないか〕
 「衝撃的だった」などと言っていながら態度としては矛盾するのですが、実のところ私は、彼女たちの感動的なパフォーマンスを幾度となく見てきた今でさえ、WUGちゃんが天上人のようには感じないのです。
 
 もちろんこれは一般オタクの勘違いも甚だしい言動であるため、話半分に聞いていただきたいのですが、その前にまず、これは決して「彼女たちのレベルが低い」などと言いたいわけではないことを明確に宣言しておきたいと思います。
 
 さて、同世代であるということは、同時期に同じような文化的背景のもとで歳を重ねてきたと言えるように思います。何がとは明確に言えませんが、彼女たちのオタク観や、またそれに限らない諸々の物事に対する捉え方には、些末であってもどこか自分と通じるところがあるように感じられてしまうわけです。
 
 もちろんこれはavexの営業戦略にまんまと引っ掛かってしまっているだけとも言え、結局は表面的な話でしかないものの、ともあれ過去にも表現したように、WUGちゃんたちには「学校で一度も話したことはないが存在としては認識している同級生の女子」のような感覚といいますか、いつも的確な表現をする青山さんが言うところの「親戚に会ったような感じ」といいますか、現実には全くもって近い存在ではないんだけれども、しかし極限まで離れているわけでもないような、あまりよくわからない例えばかりするのもあれですが、借りたアパートの大家さんの娘がアイドルだったというぐらいの距離感でしょうか。僭越ながら妙な親近感を持ててしまうわけで、この感覚が自分にとっては非常に面白く、またそうであるがゆえに自然と「追いかけたい」との感情が生まれているのではないかと思うのです。
 
 特に今回のHomeツアーでは「家族」との言葉が強調されており、Part2では私たちも勇者として一緒にドラゴンを倒したりして、ステージから「ワグナーも含めてWUGなんだ」というメッセージをひしひしと受け取っている気がします。ワグナーが八人目のWUGメンバーであるとの表現は、スポーツで言うところの「サポーターが○人目のメンバー」と同じだと思いますが、WUGに関しては上記の親近感も相まって、観念的ではなく「本当に自分もWUGのメンバーなのではないか」と感じることがあるのです。まあそれは錯覚なのですが、例えばライブ中に他のワグナーさんを見ると、WUGちゃんと一緒に踊っている人が結構おられるように思うんですね。『タチアガレ!』のサビが顕著ではないでしょうか。WUGちゃんの手の動きに合わせてペンライトも動く。世に言うミラーリング。随所でそういう場面が見受けられます。
 
 そこでふと思うのは、私はWUGちゃんを応援するという行為を介して、結局は自分自身を応援しているのではないかということです。つまり、WUGちゃんのライブを見て「明日からまた頑張ろか~」と思えるのは、「WUGちゃんも頑張ってるんだから私も頑張ろう」という感情に加えて、「私もWUGなんだからステージ上のWUGちゃんぐらい人生こなしていけるはずだ。だから頑張れよ自分」という自分からのエールをWUGちゃんを介して受け取るからではないかと思うのです。WUGちゃんを応援することは自分を応援するということ。すなわち、やはり錯覚ではなく、私はWUGちゃんだったのです。
 
 と、暴論を投げつけたところで少し冷静になりましょう。「ただのオタクがWUGちゃんとイコールなわけないだろ」との意見は仰る通りで、当然ながら私がWUGちゃんであるはずがない。何もかもが違う。違うのだけれども、どこかそういう風に感じてしまうのは、私が間接的であっても、彼女たちに「何者でもなかった時代」があることを知っているからではないか、と思います。
 
 『もっともわぐらぶ愛してる』で私は、過去の映像を通し、「何者」でもなかった時代のWUGちゃんを見ました。いや、もちろん田中さんを筆頭に、世の中にはオーラというものが存在するのだとも深く実感はしました。しかし、オーディションを受けるWUGちゃんたちは当時、紛れもなく「何者」でもなかったのです。
 
 そのとき私は「最初から『何者』かである人などいない」という当然のことに気付かされました。念のために言えば、彼女たちに光るものが感じられなかったなどと言いたいわけではありません。生まれついてのエンターテイナーも、生まれたときはただの人なのだということを理解したということです。彼女たちは多くの一般人と同じ「何者」でもない状態から、大きな目標を持って一歩を踏み出し、才能と努力と強運を持ってして「何者」かになった。「眼の前で光り輝いている幸せの権化も、元は何者でもなかったのである」との事実は、私を強く勇気づけるものであったのでした。
 
〔コンテンツの適正な規模とは〕
 SSAのような巨大な会場での"単独"ライブを見たかったかと問われれば、それはもちろんイエスです。HomeツアーのPart1と2を経験した今では、「より大きな会場であれば彼女たちは何を見せてくれたのだろう」と想像せずにはいられません。
 
 しかしながら、もしそのように大規模な会場でしかライブが行われない状況であったならば、今回の岩手公演のような一日はなかったように思いますし、私はそんなWUGちゃんを今のように追いかけようとは思えなかったのではないかと感じるところがあります。
 
 これは単に好みの問題でありましょう。例えば、ホールで観る落語と寄席小屋で観る落語を比べたとき、私は後者の方が好きというだけの話です。もちろんどちらにも良い点があります。しかし、噺家の表情や仕草、醸し出される空気感を存分に楽しもうと思うと、一観客としては会場が広いことが必ずしも良いとは言えないように思うわけです。(といいつつ、大きな会場を一人の人間が支配している感覚も大好きです。)
 
 会場が大きくなればなるほど、当然ながら演者と観客の距離は離れていきます。一方で、ステージ上と観客席の壁はどんどん薄くなっていくように思うのです。物理的にステージが円形になっているような場合はより顕著に思いますが、ホールであれば見えるはず(だと私は思っている)の夢と現実を隔てる見えない壁が、大きな会場だとそもそも見えないか、非常に見えづらい。こんなものは私の感覚でしかありませんが、会場が広くなり、観客も多くなるがゆえに、ステージが持つ魔力が弱まってしまうということもあるのではないかと思うわけです。
 
 付言すれば、ゴンドラで観客の近くを回るのも、一人間としてはとても嬉しいのですが、一観客としては複雑な気持ちになります。会場が広いから、観客が遠くなるからが故に演者の方から近くに来てくれる。その心遣い・慈悲深さにはありがとうの感情のほかありません。しかしながら、贅沢な話ではありますが、わざわざご足労いただくよりも、同じ時間をステージ上で使ってもらったほうが私は嬉しく感じてしまうのです。
 
 特にWUGちゃんの場合にそう感じてしまうのは、私の中で根本的に「七人が壇上に居る姿を見たい」という感情が大きいからでしょう。私はステージに居るWUGちゃんが見たい。それも近すぎず、遠すぎない、ステージ全体が視野角に収まりつつもそれぞれの仕草や表情が視認できる位置で、と図々しい思いを抱いてしまうのです。
 
 私がいつも「ステージに正対した位置から撮影したライブBDが欲しい」とぶつぶつ言っているのはそれが理由です。映像化する際のカメラワーク、とても大切ですよね。落ちサビでアップの映像、感動しますよね。天井から映すみんなのターン、きれいですよね。どれもこれも素晴らしいと思います。しかし、壇上の端から端まで左に行ったり右に行ったり、やたらめったらフォーメーションが変わったり、ライトが得も言えぬ存在感を示していたり、みんなで同じ動きをしているのが可愛かったり……客席の固定された視点からだからこそ見えるものがたくさんあります。もちろん、反対にカメラを通してしか見えないものも膨大にあるでしょう。会場とBD、楽しみ方が違うのだと言われれば反論のしようもありません。むしろ、そういうものを楽しむために現場に行くのだとも言えるでしょう。
 
 ただ、WUGちゃん(に限らず舞台に関わる方々というのは)たちは「観客席からどう見えるのか」を念頭に舞台上の画作りを行っているはずで、そのように観ることが結局はWUGちゃんたちの作品を最も楽しめるのではないかと思うのです。そうやって楽しめるのがライブ参加者の特権であると言えるかもしれませんが、その特権に基づく光景を、各々の記憶の中だけではなく、ぜひとも記録として公に残しておいてほしいと心から思うわけです。
 
 と、またずれてしまいましたけれども、私はWUGちゃんのライブを非常に贅沢と感じているという話です。私にとって適当だと思える距離感で、ステージと客席の壁を感じながら幻想的な時間を過ごすことができる。今よりも規模が小さければ近すぎますし(そもそもオルスタのように人と密着する空間で長時間を過ごすのは無理と思われます)、反対に大きくなると上記のような問題が生じることになります。私にとっては、今この規模がまさしく「丁度よい」ものであったのです。

 

 ここまで、半ばWUGちゃんのコンテンツとしての規模が思ったよりも小さい、という感覚を前提にしたような書き方をしてますけれども、客観的に見ればそんなことはないように思います。だって市原に始まって、大体1500前後の席を埋め続けてきてるんですから。岩手に至っては2000人規模ですよ。それはひとえにWUGちゃんのステージ上の実力からしてもっと高みに行けるはず、みたいな感覚の裏返しであり、その意味では私の「丁度よい」という感覚も麻痺しているのかもしれません。私が出会ったときのWUGちゃんは、すでにかなりのレベルに達している状態だったわけですから。


 それはそれとして、いずれにせよ私のような「今のWUGちゃんの規模が丁度よい」などと言うファンがいることが、WUGちゃんたち自身にとって良いことだったのかは我ながら非常に疑問です。このような意見は「これ以上売れなくてよい」と言っているに等しい。感覚的に「良いファン」と「悪いファン」に二分すれば、私は間違いなく悪いファンとなるでしょう。応援しているのかしていないのかよく分からない。私はこれでワグナーを名乗ってよいものだろうか。
 
 しかし、WUGが今のこの規模でなかったのなら、やはり私はファンにはなっていなかったように思うのです。間口が狭いわけではない。しかし、乗りに乗っているとまでは言えないかもしれない。ただ、一度ライブを見れば、可能性が無限大のように感じられる。その妙なアンバランスさ加減が心地よかったのです。
 

WUGは内向きなコンテンツであったのか

 「WUGとは(ワグナーも含めて)家族のようなものだ」との今回のツアーMCでよく聞かれる表現は、ともすればWUGが閉じたコンテンツであることを自ら宣言しているようにも聞こえますが、WUGそのものに強い村意識があるかを考えると、そんなことはないように思います。いや、すでにファンとなった私が第三者的な感覚で判断ができるのかは怪しいところですが、ライブ一つとっても(私が認識する限りでは)前もって必死に準備して臨まなければならない事項があるわけでもなく、ややこしい暗黙の了解があるわけでもなく、お約束体操よろしく、人として常識的な感覚を持っていれば滞りなく楽しむことができるはずで、極端に言えば、仕事の帰りにふらっと寄っても大丈夫そうに思います。私がそうでしたが、過去の経緯を知らなくても、アニメを見たことがなくても、声優ユニットとしてのWUGはそれだけで成立していて、十二分に楽しむことができる。しかしそうであるのに、どことなく感じられる内向きの雰囲気は、一体何が原因なのだろうかと不思議に思うのですが、一つにはWUGちゃんが過度に偶像化していない点があるのではないかと個人的に思っています。


 WUGちゃんは声優であり、ユニットであり、言うたらアイドルに近いところにいるんだけれども、何よりもまず人間であるように感じるのです。憧れの存在に対して「同じ人間とは思えない」との感想が述べられることがあるじゃないですか。しかしながら、私はWUGちゃんにそういう感情を抱かないのですね。
 
 いや、待ってください。どうか石を投げないでください死んでしまいます。分かります。あまり人間人間と言うと、どこか「偶像になれるほどにレベルが高くない」と言っているように聞こえてしまう節があるのは。しかし、私は決してそう言いたいわけではないのです。なんというかですね、WUGちゃんはステージ上でも常に人間であると言いたいのです。とことん人間臭いのです。ぺらじを始めとしてWUGちゃんの考えを聞ける場所が比較的多かったからそう感じるだけかもしれません。しかし私には、相変わらず観念的な話ではありますが、ステージ上でもWUGちゃんは偶像化することなく、ただひたすらに人間であり続けているように感じられるわけです。
 
 ステージ上にある見えない壁によって隔てられたその向こう側に、偶像化されていない自分と同じ"人間"がいるというのは、完全に私の個人的な印象でしかありませんが、万歩譲っていただいてそこを前提としたとき、ステージ上のWUGちゃんたちは、各々が常に自分自身と戦っているように私には感じられます。ステージの魔力により偶像化が進められるわけですが、持ち前の人間らしさによってそれが押し留められる。究極的には、彼女たちは偶像とはなり得ない。

 

 偶像ではない同じ人間を応援しているのだから、当然親近感もわきます。「内向き」とはそのような「親近感」が転化したものであって感じられるものなのではないでしょうか。と、ここまで書いておいて自分でも何を言っているのかよくわからないため、またの機会に改めて考えたいと思います。(思考の跡として残しておく)
 

解散に伴う焦燥感

 何はともあれ、WUGちゃんを同世代かつ同じ人類として認識し、何なら自分自身もWUGなのではないかとうそぶく私は、彼女たちの解散について、悲しさや寂しさはもちろんですが、何よりも焦りを覚えました。現状でさえ(同じ種族であるにもかかわらず)背中どころか足跡すら捉えられない状況であるのに、彼女たちはさらに先に進もうとしている。自分だけが置いていかれ、決して追いつくことができない。そもそもなぜ追いつこうとしているのか我ながら疑問ではありますが、何にしても全くどうにもなりません。
 
 しかしながら、その焦燥感が自分の力になったところが多分にあります。皮肉・不平不満・罵詈雑言を熟成させて燻っている場合ではないと。自分も前に進むべきであると。そうして意思を持って動き始めると、良くも悪くも状況は変わるもので、案外物事のハードルは低いんだなと気付けただけでも私にとっては大きな収穫でした。一般成人男性の戦場と、WUGちゃんたちのそれとは何の関連性もありませんが、私は同じ"人間"である彼女たちから勇気と希望をもらい、また彼女たちを通して自分からエールをもらえたわけで、そのような機会を設けてくれたWUGちゃんにはどれほどお礼を言っても足りないぐらいです。だから、やはり改めてありがとうという気持ちを伝えたいと思っています。仙台公演までに、7人にきちんと手紙を書きたいと思います。

 

WUGちゃんはどこへ行くのか

 と、自分の極々小さな一歩に満足を抱いている一方、私は先を行く彼女たちが、WUGとして真にどこを目指していたのか、これまでのWUGに納得していたのかを知りませんし、知りようもありません。何事もやるからには天辺を目指すのが常ではありますが、声優ユニットが目指す天辺とは何なのかよく分かっていません。例えば、それはSSA・横アリといった大きな会場や、武道館のような象徴的な場所で単独ライブを開催することを言うのでしょうか。
 
 ただ、少なくともステージ上に見る彼女たちはとても幸せそうに見えますし、その上近くも遠くも多くの人を幸せにするなんていう、誰にでもできないことを平然とやってもいるわけです。さらにはご家族も真っ直ぐに応援してくれていることに鑑みれば、7人はまさしく「何者」かになっているわけです。
 
 ここはちょっと飛躍するんですけれども、願わくば彼女たちには「WUGでできることはやりきった」ではなく、「(ここでもまだまだできることはあるが)より高みを目指して先を行く」という感覚で前に進んでいただけたら嬉しいなあと思っています。

 

 実際のところ、WUGで到達した場所よりも更に上を目指すというのも、かなり困難な道であるように思うのです。彼女たちはこのツアー中、リアルタイムでいくつもの世界を作り上げ、それらを人々の記憶に残していっているわけですから。今後はそれ以上を生み出さなければならない。でも、ここは簡単に言ってしまいましょう。彼女たちならそれができるはずです。
 
 ともあれ、そのように「まだまだできる」と感じさせてもらえるWUGちゃんに「今このタイミングでこの規模で出会えた」ことも、結果としてツアー全通できそうなのも、幸運なことに自分とWUGにご縁があったということなのでしょう。そのご縁を大切にしながら、私も少しずつでも前に進みたいと思います。
 
 最近はステージ上のWUGちゃんたちに会うたびに思うのです。少しでも皆さんに近づけたでしょうかと。そして、今後とも是非私の遙か前方を走り続けてほしいと。私が死んでも絶対に追いつけないぐらいに。

 

 さあ、明日からもお仕事頑張っペ。

 

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