死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

英虞湾に行って踏切の音を久しぶりに聞いた

 英虞湾に行った。相変わらず明確な目的があるわけではない。「日帰りができる程度の遠くに行きたい」欲が定期的に現れるので、それを消化すべくどこかに向かうのである。移動は電車がいい。本が読めるからだ。2~3時間電車に揺られて、kindleに目を落とし、時に居眠りしながら、気がつくと目的地に着いている。そういうのがいい。

 加えて言えば、何にしても行ける時に行っておかないと、みたいな気持ちも最近大きくなっている。それは自分の経済的・健康的な観点でもそうだし、あとは去年に石巻や熊本を訪れた影響もある。例えば津波が来る前の沿岸を、あるいは地震が来る前の熊本城の姿を、私は知らないのである。これは、「復興しても決して元には戻らない」みたいなことを言いたいわけではなくて、知れたはずのものを知らなかった(知ろうとしなかった)、となるのが何だか嫌だなあぐらいの感情である。

 かといって現実的には時間的にも金銭的にも自由ではないから、まあ行ける範囲に行けるとこに行ってみようか、との非常に穏当な結論に落ち着き、この日は英虞湾に行くことにしたのだった。

 

 最寄り駅である近鉄賢島駅へは、名古屋から特急で二時間と少し。冬の海を見に行く人は多くないのでは、と思っていたが、スーツケースを持って乗り込む人がちらほらと見えた。伊勢参りとセットで行くのかも知れないし、そもそも賢島が目的地なのかどうかも分からないが、ともあれ同じ電車に乗って移動しようとしている人がいるのは事実だった。

 本を1冊読み終えないままに到着し、賢島駅の改札をくぐる。クルーズなど楽しみつつ、無計画な中での比較的明瞭な目的の一つであった横山展望台に向かった。周辺を一望できるとのことで、せっかくだから行っておくかとの心持ちである。ところで、「横山」というのは、どの方角から見ても横に見えるからその名前らしいが、全貌はよく分からない。

 

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 人気のスポットらしいのに、横山展望台は公共交通機関に恵まれて"いない"。車移動でなければ、取れる選択肢は徒歩のみである。その距離にして最寄り駅から約2.5km。タイミングが合えば夕焼けとセットで見られるかもしれない、と歩き始めたのは16時前のことだった。

 言うまでもなく、基本的には上り道が続く。きれいに舗装されていて、自転車とかオープンカーで走ったら楽しそうに見える。だからといって交通量が多いわけではない。もちろん人もいない。途上で誰ともすれ違うことなく、黙々と足を運んでいく。世界には私一人しかいないのではないか、とさえ思えてくる。もちろんそんなことはない。

 人が遠くへ行きたくなる理由は諸々あると思うが、その中の一つは、自己の肥大化を緩和できるからではないかと感じる。生きていると、ポジティブにもネガティブにも、自分の中の自分は大きくなっていく。「他の人よりうまくできる私は優れているのでは」とか、「なんで自分だけがこんな目にあわなあかんのか」とか、どちらの方向でも自分を特別と思い始めるのである。

 そういう感情は、早ければ電車に乗る段階から瓦解していく。多寡はあるにせよ、同じように同じ目的地に向かう人間がいるわけである。「こんな時期にこんな時間から○○に行く人なんかおらんやろ」と思ったところで、そんな人はそこそこ居るのである。当たり前である。しかし、「特殊なことをやっているつもりだがその実全然特殊じゃない」を実感するのが私にとっては大切で、座席で本を読み進めていくのにつれて、心安らかになっていくのである。

 そして、朗らかな気持ちで現地を一人うろうろすると、これもまた良くも悪くもではあるけれども、今度は殊更に「自分」が強調されていく。贅肉を削ぎ落とした後に残る小さい小さい矮小な自分が自分なのである。言ってしまえば、これは非常に安上がりかつ安全な自分探しであって、人間インドに行かずとも何となく悟った気にはなれるのだ。

 

 ヒイコラ言って登りきった先の景色は、ここまで来てよかったと思わせるものだった。

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 面白い形だなあってね。青空でも夕日が差し込んでるわけでもないから、一番きれい見える時間帯とは言えないのかも知れないが、満足はした。登山家の感動はこれを10万倍ぐらいしたものなんだろうか。だとすれば、取り憑かれるのも分からなくはない。

 


 うかうかしていると暗闇の中歩くのを余儀なくされるため、いくらか深呼吸をして早足で下山の構えに入った。傾斜のおかげか、行きよりも進みが速い。日没までには駅へ、と太陽と競争する気持ちで歩く。途中、踏み切りに引っかかった。カンカンカン、と鳴り響く音が久しく感じられた。高架と地下鉄の生活に慣れ、もう一年も聞いていなかった。あるいは、気がつかなくなっただけかもしれない。環境が変われば、それまでのものを忘れて、できた隙間が新しい何かで埋まっていく。それは「慣れ」なのであろうし、きっと生きるとはそういうことだろうと思った。