死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

舞台の上に何の姿を見出そうとするのか

 

「舞台上に立つ演者」は何次元の存在なのでしょう。という話は千度議論されてきたことかもしれません。いわゆる2次元と3次元の話で、もはや2.5次元との表現は広く知れ渡っていますが、昔からこの「2.5次元」の指すところがしっくりきません。「2次元」と「3次元」の定義の明確な定義があるわけではないでしょうし、そんなものは個人によって受け止めも変わるだろうとのいつもの結論に落ち着くわけですが、個人的には、生身の人間であればそれは3次元だろうと思います。

 

 オタクコンテンツの中でも、特にライブ系の市場は拡大の一方だと聞きます。実際のところ、2次元と3次元をミックスして展開を図るコンテンツは、男性向け・女性向けを問わず、なんだか次から次へと出てきている気がします。今後も舞台上に演者が立つ機会(コンテンツそれぞれの規模はさておき)は増えていくのでしょう。その時、舞台上に立っているのは演者なのでしょうか。それともキャラクタなのでしょうか。

 例えば作中にアイドル(ユニット)が登場するコンテンツで、当該コンテンツのライブをやりますよという場合、観客は何を見に来るのでしょう。また制作側は演者として舞台に立たせるのか、それともキャラクタとしてなのか。どう考えるのでしょうか。

 

 

 そんなことをごろごろと考えて思い出すのはアイマス9周年ライブの大阪公演1日目。私が初めて行ったライブです。

www.famitsu.com

 当時(今もですが)アイマス自体について細部までは知らないものの、ニコニコ動画等を通して何となく認識はしており、大阪に来てくれるなら折角だし行ってみようか、ぐらいの感覚で赴いたものでした。

 その内容はとても楽しかった、と一言でまとめてしまいますが、当時「ほえ~」と思ったのは、客席のプロデューサーから発せられる声援でした。多くは演者のあだ名を呼ぶわけですが、中にはキャラクタの名前を呼ぶ人もいたのでした。

 それを聞いた時には非常に不思議に思いました。そう発するということは、舞台上の彼女たちをキャラクタそのものと認識しているということなのか。あるいは、彼女たちを通してキャラクタの存在を実感するということでしょうか。ならば、声優とはイタコと同じ役割を果たしているのか……かどうかはさておき、「キャラクタを感じるためにライブに来る」人も中にはいるのかしら、と思ったのでした。もちろんこのような言い方をするのは、少なくとも私はそうではないから、というだけの話です。

 演者側はどうでしょうか。これは全くもって曖昧で恐縮ですが、いつかのインタビューで下田麻美さんが「ライブにおいてどうやって亜美・真美に寄せるか」の苦悩というか、難しさについて語られていた記憶があります。つまり、「キャラクタの再現」を楽しみに来ている人がいる、との前提がそこにはあるということでしょう。

 よくよく考えてみれば、自己紹介からして、まずキャラクタとしてセリフを言って、その後「○○役の」と頭につけて自身の名前を述べるわけですから、自明の理かもしれません。ただ、演者側の意識として、演者自身として舞台に立っているのか、それともキャラクタとして立っているのか、人によって違いがあるのではとも思います。そして、それはどちらかに統一しなければならないものでもないのでしょう。

 

 

 マクロスのライブに行った際も、例えば福山芳樹さんは熱気バサラとして捉えられているのか、と思ったりしました。

sorobanya.hatenablog.com

 特にワルキューレアイマス同様にキャラクタを演じる場面があり*1、観客としては少なからず2次元を意識することになります。ただ、マクロスは歌そのものが作品と紐付いており、歌自体が2次元とも言える気がしますから、他のコンテンツと同じに考えるのは誤りかもしれません。そもそも、人だとかキャラとかではなく、純粋に音楽(演奏・歌唱)を聴きたい層もいるでしょうしね。

 

 

 驚くほどに少ないサンプル数で恥ずかしい限りですが、ではWake Up, Girls!はどうだっただろうかと考えると、演者とキャラクタのハイパーリンクを謳いながらも、実際のところはしっかりと峻別されていたように思います。もちろん、私が知っているのは最後の一年間だけですから、過去のことは分かりません。加えて、言うまでもなく、解散までのラストランという背景は、あくまでも声優ユニットとしてのWUGのみに妥当するものでしたから、キャラクタたちに焦点が当たらなくなるのも必然的であり、視線にバイアスがかかっているのも否めないでしょう。

 ラストのツアーにおいてはキャラクタをフィーチャーする企画もありました。キャラクタとしての7人が登場する前説とリーディングライブ(朗読劇)、そしてキャラソンコーナー。特に後ろの2つは、舞台上の7人とも、キャラクタの7人を意識しておられたと思うし、こちらとしてもそう感じた部分があります。これはつまり、演劇と同じで、演者の7人に、キャラクタの7人が"降りていた"、ということだと思います。

 裏を返せば、そういったコーナー以外でキャラクタの7人が降りている場面はなかったと思います。その一方で、キャラクタの7人が"居る"と感じたことがありました。どのタイミングであったかは定かではありませんが、ともかく言いたいのは、演者の7人とともに、キャラクタの7人が舞台上に"共に居る"感覚を覚えた、ということです。演者にキャラクタが降りているのとは明確に別で、その時ステージ上には、観念的ではあるけれども、間違いなく14人が立っていました。

 ライブ会場に集まったエネルギーによって次元のゲートが開き、あちらとこちらがつながった、というようなSF的展開が生じていた可能性を除けば、結局演者を通してキャラクタを見た、ということなのかもしれません。

 

 

 演者とキャラクタは同一の存在でしょうか。無論違うでしょう。その前提下で、少なくとも、私は「演者とキャラクタがともに舞台上に立っている」感覚が好きだったのだろうと思いますし、ただ、そういうコンテンツはえてして演者とか制作者側の生命力なり精神力なりを犠牲に生み出されているようにも思われますから、消費者として徒に求めるのもどうなんだろうなどと呟きながら、今日ものんべんだらりと生きている次第です。

 

*1:フロンティア組はどうだったか