死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

私はパワプロくんに感情移入していたのか

 私の中でパワプロWEBアニメが大盛況である。

 

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 うんうん。ゼロ年代の夕方6時にテレ東系列で放送されててほしい。朝7時でもいいな。アイキャッチと場面転換のトンボが光りますね。小筆ちゃんもかわいいね。

 

 もっと分かったような口を利きたいところだが、私自身、特にパワプロフリークというわけではない。しかし、世代的にパワポケ3とパワプロ9をよく遊び、特に後者については、みんな大好き京アニ謹製のOPを延々と繰り返し視聴し、やはりみんな大好き恋々高校をひたすらプレイしていた。サクセスに触れた人間の多くが、一度は「パワプロがアニメになったら…」と考えるはずだ。いやいや、メディアミックスはしていたじゃないかって? 確かにそうだ。しかし、私は一発逆転パワプロクンではもはや満足できない体になっていたのであった。

 しかしパワプロは現代に至るまでアニメ化されなかった。その理由を勝手に想像してみよう。まずもってどういう構成にするかとの課題があるか。単にサクセスの一編をアニメにすればよいのか。そうするにしてもどのサクセスを? また、そもそも実際のどれほどアニメに需要があるのか分からない。加えて、これも根本的な話だが、何のためにアニメにするのか。販促の一つとして? パワプロは基本的にビデオゲーム以外の商品展開をしてこなかった。アニメを見た視聴者をゲームに流入させられるのか。販促としての効果があるのか。予算をかけて取り組むほどの必要性が本当にあるのか……。

 実態がどうであれ、結論としてパワプロはアニメになった。めでたいことである。そして当然のように、パワプロくんがパワプロくんとして登場している。これはパワプロくんが実況パワフルプロ野球サクセスモードにおける主人公であるからだ。私たちは改めて認識しなければならない。パワプロくんは確固たる人格を持った一個人であり、魅力あふれる野球星人なのである。

 

 ところで、最近ではウマ娘がゲーム界を大変賑わせている。新しいコンテンツが注目を浴びるのは喜ばしいことだ。私も早速インストールしたが、まだちゃんとプレイできていない。これはひとえに、私がコントローラを用いないゲームのプレイを苦手としているからだ……というのは理由の一つであるものの、実際のところは物怖じしているだけである。それこそ、ひたすらにウマ娘の育成に励んでしまう可能性が高いからだ。数あるゲームジャンルの中でも、育成シミュレーションは満足の底が知れない。

 この手のゲームをプレイする目的はどこにあるか。人それぞれの一言で終わってしまう話だが、一義的には能力値の高いキャラクタを育て上げることだろう。しかし、私にとってそれは付随的な要素である。パワプロで言えば、オールAやSを目指すのがゴールなのではない。結局私は物語を読みたいのだ。彼ら彼女らがどこへ行くのかを見たいのである。そしてストーリーを進めるためには、一定の能力値が必要となってくる。だから私は下手くそながらに試行錯誤を繰り返すのである。

 ストーリーを読みたいだけなら、先人が導き出した、最も効率の良い育て方を単になぞればよいのではないか。百里ある。しかし、そうしてしまうと、もはやゲームをプレイする意義がない。早い話、プレイ動画を見ればよい。もちろん、そのような消費の仕方は否定されるものではない。ただ、私はそれをもったいないと思う。私はストーリーを楽しむのと同じぐらい、ゲームを楽しみたい。ありがたいことに、育成モノはえてして、純粋にゲームとして面白いのである。そうして私は、オールCだったり、走力とミートだけがAだったりする、魅力があるんだかないんだかよく分からない選手を量産していたのだった。そこに効率性の三文字は存在しない。言わずもがな、育成の最適解を導き出すのも楽しみ方の一つである。だが私はどちらかと言うと、結果そのものではなくて、過程の方をより楽しんでいるということなのだろう。そして最適解から遠く離れた地点で飽きてしまうこともしばしばある。そしてまたふらっと戻ってくる。その繰り返しである。

 

 さて、ウマ娘がリリースされた際、そのゲームシステムについて「パワプロシャニマスを足して割ったような感じ」と表されているのを見た。要するにそれは、各能力値がパラメータ化された育成ゲームであり、育成期間が三年であり、ライブやファン人数といった要素があり……と諸々の点から想起されるものであったということであろう。近時において、育成ゲームとしてまず思い起こされる作品がその二つだったということかもしれない。

 ただ、パワプロを他二作品と比べると、一点明確に違うところがある。それは育成の対象である。ウマ娘シャニマスも、ともにゲーム上で成長するのは自分ではない。日々鍛錬を重ね、表舞台に立ち、ファンを獲得していくのはウマ娘、あるいはアイドル自身である。一方プレイヤーは、トレーナーやプロデューサーの肩書で、彼女たちを支え、共に歩く、あるいは導く(さらに言えば導かれる)立場として存在する。私たちは画面の中の私の目線を通して彼女たちを見守るが、時にはプレイヤー不在でストーリーは進む。

 また、プレイヤー自身の能力値がパラメータ化されることはない。厳密に言えば、それは彼女たちの能力値として間接的に現れることとなる。プレイヤーは彼女たちの育成を繰り返すことで学習し、ゲーム内ではなく、現実世界においてもろもろの知識を集積していく。そうして積み上げられた経験値は、「指導力」とも言える抽象的なパラメータに変換され、ゲーム内における彼女たちの能力値(育成結果)として反映される。高い能力値に育て上げられることがすなわち優秀なトレーナー、プロデューサーということになり、それがすなわちプレイヤーの能力として捉えられる。プレイヤーは育成結果のみをもって力量を評価される。

 と、上記二段落を読み進めるにあたって、違和感を覚えた方もいるかもしれない。パワプロと他二作では育てる対象が違うって? 何を言っているのか。パワプロにおいて、さもプレイヤー自身が成長対象であるように語っているが、パワプロにおける育成対象はあくまでもパワプロくんであって、プレイヤーではない。経験値を得るのも、不眠症になるのもパワプロくんである。しかし、パワプロくんが今スタミナ練習をしているのは、パワプロくんの意思によるものなのか? どの能力値から上げるのか、何の特殊能力を取るのか、この一週間は休むのか。それらを選択しているのは一体誰だ? 無論私である。ではパワプロにおける私とは一体誰なのか。無論パワプロくんである……本当にそうか?

 そう考えたとき、一つの事実に気がつく。私はパワプロくんに感情移入していたのだ。実に単純な話だ。恋々高校で女子部員をまとめ上げているのも、あおいちゃんと甲子園にいくために署名を集めていたのも、全部私だったのだ。

 言い換えれば、私は誰かを育成したいのではない。私自身を育てたいのだ。おそらくそれが違和感の根源だ。プロデューサーとしてアイドルを影から見守る? 違う違う。私自身がステージに立って、周りに喜んでもらいたいのだ。ディアリースターズ(未プレイ)だ。トレーナーとしてアスリートを育てる? これも違う。私自身の走りで会場を沸かせたいのだ。

 つまり私は、時に競争し、時に励まし合いながら切磋琢磨し一つの目標に向かって走り続けるような、ある種のスポ根環境に憧れを抱いているということだが、実際学生時代にはそのような環境に身を置いていたにもかかわらず、当時の生活に戻りたいとは露ほども思わないところ、人間とは複雑な生き物である。再び春夏秋冬土日も問わずグラウンドに立ち、トレーニングに励む毎日を送りたいか? 考えるだけでもしんどい。もう二度とやりたくない。

 しかし、そう言いつつも実は過去への憧憬なのかもしれない。学生という保護される立場にあって、がむしゃらに一つのことに取り組める状況が、どれだけありがたく、また素晴らしいものだったかは言うまでもない。傷だらけ・砂まみれになった体も、まあ若さの象徴と言えるか。練習終わりのグラウンドで夕日に照らされながらダベる時間は永遠のようだったな……ああそうか……私は育成ゲームを通じて、あの日々を追体験しようとしていたのか……もう戻ってこないあの日々を……私は……私は……(塵になって消える)

 

 

 

 

 

 

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 人生まだまだこれからだってね。