死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

月ノ美兎『ウラノミト』を聴いて人の二面性に思いを馳せる

 衝撃的だった。

 大げさな言葉を使うと、かえって嘘らしく聞こえてしまうものだが、私が、月ノ美兎さん(以下、人名につき基本的に敬称略。)の歌う『ウラノミト』を聴いた時の感情は、そう表現するのが最も適している。

 月ノ美兎の新しいアルバムに、広川恵一只野菜摘コンビの新曲が収録されると伝え聞いた。それだけで興奮冷めやらない。そこに月ノ美兎の世界観が乗っかってくる。いったいどんな作品になるのか。楽しみで仕方なかった。

 

 ハードルを上げてから紹介するのは不適切かもしれないと思いつつ、聴いたことがなければ、練りに練られて生まれたであろう、甘美なPVもあわせて、ぜひとも一度その世界を体験してみて欲しい。

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 これが世界観というものか。再生を繰り返すに伴い、様々な思考が頭を駆け巡った。

 以下では、私がウラノミトを聴いて考えたことをただただ書き散らしている。最近は聞かなくなったが、Vに触れるようになっておおよそ三ヶ月程度の人間が書く、いわゆるポエムの一種である。何のまとまりもないのは、ひとえに私の力不足である。認識違いも解釈誤りもあるだろう。もし何の因果か本記事を読むこととなった月ノ美兎およびV界隈に明るい諸先輩方におかれては、表からでも裏からでもご意見をいただければと思う。もとい、もはや私一人の頭では色々と限界である。

 

 ついでにニューアルバムのクロスフェードも置いておきますね。

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 それでは何とぞよろしくお願いいたします。

 

 

1.ウラノミトを聴いて思う

(1)VTuberの人格とは

 ウラノミトは一曲を通して、二面性を意識させるフレーズにあふれている。タイトルからして『ウラノミト』であるから、必然的にオモテノミトとの対比になるところ、聴いていくうちに、これはVTuberという存在そのものの二面性をも表しているのではないかと思うようになった。

 はたして、ウラノミトとは一体何を指しているのか。それはVTuberの人格に関する、近時における私自身の認識の変化に伴う疑問でもあった。

 

  まずもって、私がまだVTuberというものに、しっかりとした興味を持っていなかった頃の話をしよう。その頃の私は、「人間がキャラクターを演じて色々やるコンテンツ」以上のイメージを持っていなかった。換言すれば、どのような外形をしていようとも、コンテンツの中心にあるのは、私が住むこの現実世界における、私と同じ人間である……というような認識だ。

 一義的に言えば、今も昔もこれは事実である。配信時に聞こえてくる彼ら彼女ら(あるいはその枠に留まらない者)の声は、生身の人間の声(あるいはそれを変化させたもの)に違いなく、その動きもやはり人間のそれをトラッキングしたものだ。私の目の前で楽しそうに喋っているのは、あくまでも現実世界の人間である。

 

 このような認識は、VTuber界隈に触れるとともに変化していった。VTuberの入り口はその外形である。しかし本質はその人格にある。その意味では、結局のところ人と変わらないのであり、単に外形に適するキャラクターを演じていると解するのは少しズレているのである。

 その結論がよいのか悪いのかはよくわからない。人と変わらないということは、ではなぜキャラクターの姿を採る必要があるのか、との疑問に繋がる。この点(に限る話でもない気はするが)は、VTuberの歴史が短いとはいえ、すでに幾重にも議論がなされてきたと思われるので、そちらに譲りたい。

 ともあれ、私は「人間がキャラクターを演じている」という捉え方をしなくなっていった。私と月ノ美兎の関係で言えば、私は、この世に存在している人間Xが月ノ美兎を演じている、とは考えなくなったのである。言い換えれば、月ノ美兎を一人の人格として認識するようになっていった。月ノ美兎は実在している。少なくとも、バーチャル世界においては。その言葉自体が矛盾をはらむようではあるが、私はインターネットという媒介装置を通して、バーチャル世界と繋がっている。そう捉える方が今のところはしっくりきている。

 

 ごちゃごちゃと私の認識を述べたが、一視聴者がVTuberの存在や人格をどう認識しているかは、実はあまり重要ではない。消費者として身勝手に楽しんでいるだけだから、究極的には、VTuberとしての実在性を求めようが、人間が演じているキャラクターとして捉えようが、乱暴に言えばそれぞれ勝手にすればいい話である。

 一方で、提供側はどうなのだろうか。彼ら彼女らの中ではどのような整理が行われているのだろうか。

 

(2)人間における二面性

「裏表のない人間」という表現がある。辞書によれば、相手によって言動を変えたり、内心では別の感情を抱いたりすることがないさまを言う。

 本当の意味で、裏表がないと言える人間はいない。と断言できるものではないが、仮にいたとしても極少数ではないか。社会の中で生きていくにあたっては、程度はどうあれ、人は、自分とは違う別の何かを演じなければならないことがある。本心ではないことを言う場面は少なくなく、顔で笑って心で泣くのも珍しくはない。

 また、そういったネガティブな文脈だけではなく、非常に単純な話として、自己開示には難しさを伴う、ということでもある。心の内や、本当の自分(なるものがあるとして)をためらいなくさらけ出せる相手・環境はどれほどあるだろうか。人は表と裏を作らざるを得ないのである。

 

(3)ウラノミトで描かれる二面性

 ウラノミトには表と裏、あるいは陰と陽の対比をイメージさせる文言が並べられていて、曲中それらが反復されることで、視聴者は嫌でもその構造を意識させられることになる。

 そこに現れるメッセージを素直に受け取るのであれば、ウラノミトは月ノ美兎の二面性を表現しているのだと捉えられる。ではその二面性とは何か。私としては三種類あるのではと感じている。すなわち、

①バーチャル世界で女子高生学級委員長として生活している月ノ美兎

②「バーチャル世界で学級委員長として生活している」との設定でバーチャル世界の女性Xによって演じられているところの月ノ美兎

③「バーチャル世界で学級委員長として生活している」との設定で現実世界の人間によって演じられているところの月ノ美兎

の三種類である。

 

 ①は劇中劇のようなイメージと言える。バーチャル世界に月ノ美兎という女の子がいて、彼女はとある高校に通い、学級委員長も務めている。清楚で可憐な外見を持ち、周囲からの信頼も厚い。ただ、普段学校では外見や評価に応じた振る舞いをしているが、決して完璧超人なわけではなく、愚痴も言えば悪態もつく。歳相応(あるいは思ったよりも黒い)の裏の顔を持っている。アマガミ綾辻さんを思い出そう。

 劇中劇と言ったのは、私はそのような月ノ美兎がいるとは感じられないからである。すなわち、バーチャル世界が実在するとしても、そこに「女子高生学級委員長の月ノ美兎」は存在しないということだ。これを説明するには、先に②について述べたほうがわかりやすいと思うのでそうしたい。

 

 ②はバーチャル世界における月ノ美兎の存在を認識する。ただし、月ノ美兎が本当に女子高生で学級委員長とは考えない。それはあくまでもキャラクター上の設定であるとして捉える。

 つまり、バーチャル上で生活を送っている一人の女性Xが、「バーチャル世界で学級委員長として生活している」という設定のキャラクターであるところの月ノ美兎を演じている、として認識する。

 Xは(少なくとも現状においては)女子高生でも学級委員長でもない。大学を卒業してから数年以上が経過しており、ともすれば日中はバーチャル世界において普通にオフィスワークをしているのかもしれない。ただ、配信を行うときには、バーチャル学級委員長としてのキャラクターをかぶり、我々の目の前に姿を現す。そうなのだから、明らかに学生らしくない発言が随所に見られるのも、むしろ当然のことである。

 言わずもがな、これは現実世界の物事をバーチャル世界に置き換えただけである。我々の世界でも、芸能界で生きる人々は同じようなものだろう。そもそも、人によっては芸名を用いて、本来の自分ではない別の存在であることを明確にしている。

 ②における重要な点は、バーチャル世界およびバーチャル世界における人格を、現実世界と同レベルに当然に存在するものとして理解しているところだ。月ノ美兎は現実にもバーチャル世界にも存在しないかもしれないが、バーチャル世界における女性Xの存在には意義を挟まない。この場合でも、バーチャル世界におけるキャラクター月ノ美兎と、同じくバーチャル世界における女性Xの二面性は存在する。

 

 ③は初期の私の認識をなぞるものであり、あらゆる与太話を全て放棄すれば当然の帰結でもある。そもそも、バーチャル世界なるものは現実には存在しない。月ノ美兎も、私の生きる現実と同じ世界に存在する女性Xが演じているキャラクターに過ぎない。

 だとしても、やはりそこには二面性が存在する。言わずもがな、月ノ美兎と現実世界における女性Xである。そして、これが最もわかりやすい関係性と言えるかもしれない。

 

 以上のとおり、一言で「月ノ美兎」と言っても、我々はどの一面をとってみてそう称しているのかは人によって異なるだろうし、一意的に定まるものでもないのではないか。そして、ウラノミトは、まさにその点を突いてきた曲なのではと私は思っている。

 

 

2.ウラノミトを読んで思う

(1)月ノ美兎のウラとは

 月ノ美兎は裏表のない人だ、と言われているのを聞いたことがある。というか切り抜きで見た。おそらくそれは嘘偽りのない人物評だろう。

 一方で、月ノ美兎は自身についてこのように語っている。

 わたくしは、「自分の性格の悪さにしては」極めて安全に見える位置にラインを置いて活動している、つもりだ。言ってしまえば、実際の自分の考えからは目を背けて、本心と全く別のことを配信で口にすることだって全然ある。けれど、わたくしがそのことに対してさして嫌悪感を抱かないのは、自分が強く憧れている人たちもそうしているように感じているからだ。
(引用元:月ノ美兎. 月ノさんのノート (Kindle の位置No.667-671). 株式会社KADOKAWA. Kindle 版.)

 わたくしは多分、比較的悪い性格をしている。それを「隠している時」、性格の悪い同類のリスナーには、勝手に察して心の中で笑みを浮かべてほしい。本心を隠すからこそ分かり合えることがあるだなんて、ものすごい矛盾してて、ワクワクしませんか?
(引用元:月ノ美兎.月ノさんのノート(Kindleの位置No.679-681).株式会社KADOKAWA.Kindle版.)

 月ノ美兎には裏がある。そしてそれは一定程度意図されたものであり、彼女の一つの魅力でもある。

 

 VTuber月ノ美兎に、清楚可憐な女子高生委員長であることを心の底から求めている視聴者は、いないと言っていいだろう。彼女がおおよそ女子高生らしくない発言をし、取り繕う、あるいはスルーする様子は日常茶飯事であり、一つの様式美である。視聴者も共犯関係となって配信を盛り上げている。

 だから、ウラノミトも同じように捉えるのが最もわかりやすい。つまりは、先ほど私が述べようとした、よくわからないもろもろはさておき、「月ノ美兎は実は女子高生でも学級委員長でもない」というキャラクタ性を取り出して、それを裏表と表現し歌われるものであるとの解釈である。

 しかし、そう捉えるにはウラノミトは重い。もう一歩踏み込んで考える必要があるのではないか。VTuberの裏とは何なのか。表とは何なのか。1(3)の整理も念頭に置きながらの検討を要するのではないか。

 また、そういったメタ的な題材は、すでに『それゆけ!学級委員長』で取り上げられているから、あえて同じ論じ方をするとも思えない。何というか、月ノ美兎はそういうコンテンツの展開はしないように思うのだ。もちろん根拠はない。

 

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(2)ウラノミトの歌詞における2つの対比

 以下においては、只野菜摘によるウラノミトの歌詞を引用して、裏と表を始めとする曲中の対比表現が意味するところを考えていきたい。

 

moon night ツキノオト
moon night カヤノソト (月の裏から)
moon night ウラノミト
moon night ソラのモト (悪戯する)

 「月」は月ノ美兎を彷彿とさせるワードの一つである。それが曲の頭から登場するのだから、私はまずもって月について考える必要がある。

 ところで、月が地球に対して常に同じ面を向け続けているというのは有名な話である。我々地球人からは全くもって見ることができない。そして、裏側がどうなっているかというと、隕石の衝突によりクレーターまみれになっている。「月の裏側」で検索すれば、サジェストに出てくるのは「汚い」とのド直球ワードであり、実際その画像は群衆恐怖症であれば避けるべき代物である。

 つまり、月自体にすでに考慮すべき裏表が存在している。私たち地球人にとって、月は慣れ親しんだ天体の一つであり、一蓮托生の関係にある。月は毎夜私たちに姿を見せる。しかしながら、私たちが見ているのは、文字通り月の一面でしかない。

 私たちは、夜空に浮かぶ月を見て、ときに美しいと言い、そこにうさぎの姿を見出す。しかしながら、あくまでもそれは月の表であり、裏がどうなっているかを知らないし、見る術を持たないのである。

 月ノ美兎は、そんな月の裏側から私たちに語りかけようとする。

 

真っ白な雪のよう 晒したくない
そう思うなら 転がそう 転がそう
嫌だな 踏まないよ
心の裏に直角に降りるから 踊らせて

「晒したくない」のは一体誰か。想定しうる選択肢は、月ノ美兎かリスナーの二択だろう。前段からして、発言の主体は月ノ美兎であると考えられるが、前二行は月ノ美兎→リスナーの呼びかけとして「晒したくないなら転がそう」と言っているのか、それとも月ノ美兎の内心の発露であるのかは定かではない。

 一方で、踊る主体は月ノ美兎にほかならないから、後二行は月ノ美兎→リスナーへの呼びかけだろうか。降りる先はリスナーの心の裏である。

 とすると、流れ的には、前二行もまた月ノ美兎→リスナーへの呼びかけと捉えるほうが自然だ。月ノ美兎はリスナーに対し、「晒したくないなら転がそう」と言っている。

 次に、リスナーは何を晒したくないのか。後二行から裏読みすると、心の表側と解せられるか。しかし、表側をあらわにしたくない、とするのは少し違和感がある。そもそも表はオープンにされているものではないか。したがって、ここでは表に限るのではなく、「真っ白な雪のよう(な心の内を)晒したくない」ぐらいに捉えるのがよいと思われる。

 転がすことで真意がはっきりと分からない状況を作るのを勧めた上で、月ノ美兎自身は、そのごちゃまぜになったリスナーの心のさらに裏側に、垂直に降りてこようとするのである。でもそれってどういう状況?(とまどい)

 

真っ黒な唇や 真っ赤な瞳
こっちの顔も 愛して 愛して
背後に気をつけて 首すじそっと
キスするふり 噛むかも 傷痕は三日月

 黒と赤の色使いは、一般的には逆なのではないか、という違和感から本項は始まる。赤と黒の二色自体も対比であるが、唇が黒く、瞳が赤くなっているのもまた裏表の表現だと言えるだろう。それは「こっちの顔も」と言っているところからしても頷ける。

 

だして だして だして だして
出して せめて もっと側へ
ムーンライト
嫉妬嫉妬嫉妬シット
うっとりしちゃってないでよ

 ここ全然分からないんですよね(唐突)

 いや、他のところもそうなんですけど特に分からない。

「だして」は月ノ美兎→リスナーだと思うんですけど、何をだすことを求められているのか。流れとしては、対象をリスナーの心とすると、精神的な接近を求めているものと理解できるがどうか。「だして」と「出して」の使い分けが意図するところは何か。前項において、首筋に噛みつける程度に肉体的距離が近しいのだとすると、そこに加えて精神的にも…ということかもしれませんね。

 さらにはムーンライト。月=月ノ美兎と捉えるならば、月光もまた月ノ美兎と解するのが相当でしょうか。後から出てくるmoonlightとは違うものなの?

 ところで、月光とはすなわち太陽光が月の表面に反射したものです。私たちの目には月自体が輝いているように見えるけれども、その実、太陽がなければ私たちは月を視認することすらできないわけです。

 そうすると、私たちが美しいと思う月の姿は、本当に月自身だと言えるのでしょうか。結論どころか、以降の議論も全く想定できないままに書いていますが、ともあれ、太陽と並べたときに、月が副次的な存在になってしまう部分はあると思います。

 その上で、「ムーンライトを見てうっとりしているのリスナーを見て嫉妬する月ノ美兎」という構図でよいのかは正直よくわかりません。言い換えると、月ノ美兎は何に嫉妬しているのか、ということです。表の月ノ美兎を見てうっとりしていることに対して裏の月ノ美兎が嫉妬している、とするのが素直ですが、少しひねると、確かに自分のことを見てうっとりしてくれているが、その感情も太陽がなければ成立し得ないことに基づき、月たる月ノ美兎は太陽に対して嫉妬している、というようにも捉えられうるかもしれません。

 さらに言えば、太陽と月をそれぞれ月ノ美兎の表と裏に当てはめてもよいでしょう。影が光を際立たせるとは言っても、結局のところ光がなければ影は存在できないのです。であれば、光に嫉妬してしまう感情はある種当然に生まれるものとも言えます。

 

まるいの四角に塗りつぶす (シタイ)
笑ったり泣いたり激しい (ミタイ)
持て余す時は うたがって (擬態)
どっちを選んでも ひとりの女
ひとつのカオス

 前二行は月ノ美兎のパーソナリティを示していると捉えよう。規定から外れたことをしてみたくなる。それは大きな好奇心によるものであり、「どうすれば面白くなるか」を追求する姿の表れである。感受性は豊かだろうか? 私は月ノ美兎に対して、情緒が激しいイメージをあまり持っていない。ただ、ある行為や外形から、その根底にあるものを読み取る能力は著しく高いのではないか。そんなイメージがある。

 後二行も曲のテーマからすると当然の帰結である。表も裏も月ノ美兎には違いないだろう。ただ、「二人で一人」との考え方を採っているかは微妙なところだ。どっちを選んでも月ノ美兎ではある。しかしそれは、月ノ美兎の表と裏が完全に分離しているかどうかを示すものではない。ただ一つ言えるのは、どちらもカオスを形成しているということ。

 三行目への言及を意図的に飛ばしたのは、何を疑えばいいのかがよくわからないからだ。月ノ美兎を疑えばいいのか。あまりに感情の起伏が激しい状態の月ノ美兎を見たときには、それが本心ではないことを疑え、ということか。迂遠な表現だが、め

 

shooting sunshine sunrise
shooting 太陽ゲーム 
参加する?
shooting sunshine sunrise
moonlight だって 
脇だから

 PVの雰囲気もあって、shootingは「撃つ」のshootだと思っていたのですが、「撮影」の意味でも使われるそうですね。shoot sunriseみたいなコロケーションは、そんなに変でもなさそう。意味を掛けてる可能性はままある。

 太陽ゲームで検索すると、懐かしき『ボクらの太陽』がヒットしますが、さすがに無関係でしょう。とすると、太陽ゲームが何なのかを考えなあかんね。

 まず太陽ゲームは参加・不参加を選べる性質のものらしく、月ノ美兎も「参加する?」と言っているが、ここでもまた、それが対リスナーか対自分かの問題が存在する。言い換えると、太陽ゲームの参加者とは誰なのか。

 その前に、まず最終行を検討しよう。「だって」がどちらにかかるのかが判然としない。すなわち、「moonlightがきれいに見えるとしてもあるとしても脇役だから」なのか、moonlightは感嘆詞(?)的に使っているだけで、「だって~」とは断絶しているのか。

 この点は、太陽と月の対比構造も加味すると、前者であると考えられるか。つまり、月夜においてはその光から月が主役のように考えられるけれども、本質的に月は、太陽の光がなければ輝けない。したがって、実際のところは脇役である…といった捉え方である。

 そうすると、太陽ゲームとは「太陽にならんとするゲーム」ぐらいに理解できるか。端的には、脇役が主役になろうとするゲーム。さらに換言すれば、裏が表になろうとするゲームと言えるか。

 であれば、「参加する」のは月ノ美兎自身だろう。したがって、この呼びかけもまた、必然的に月ノ美兎自身に対して発せられた言葉と解するのが相当である。しかし、それだとshootの意味はどうなるのだろう。

 shootを「撃つ」だと捉えると、打倒みたいなイメージが付く。ただ、sunshineはともかくとして、sunriseをやっつけるというのはよく分からない。

 一方で「撮る」だと捉えると、行為の様態としては分かりやすい。そして、shootする対象にsunsetが含まれていないことを考えると、太陽ゲームとの親和性も高い。日の出とは、生まれ変わりや始まりの象徴であるから、脇から主への変化を歌っていると解するのはどうか。

 

追いかけているのは いい子の方でしょ
本当のことを教えてあげるよ
想像裏切らない 今夜もいい子
さあ 信じてみせてよ
「できるかな。」

「いい子」の月ノ美兎は、表なのか裏なのか。ということを考えるとき、そもそもウラノミトを歌っている月ノ美兎はどちらなのか、との論点も付随して生じることとなる。

 ところで、「いい子」の定義も実際のところは不明瞭である。一行目のいい子と、三行目のいい子は、同じ性質のものなのか。しかし、そう理解すると「本当のことを教えてあげるよ」が浮いてしまう気がする。

 多分「あなたが追いかけているのはいい子の方なんでしょ。"でも"本当のことを教えてあげるよ」との文脈だと思われるから、「表を追いかけているリスナーに裏を教える」として、「今夜も"いい子である"とのリスナーの想像を裏切らない」ということなのか、「想像(≒期待)を裏切らないという点で今夜もいい子」なのか。

 信じてみせてよと試されているのはリスナー。でも、私たちは何を信じたらいいのかな。そして疑問形ではない「できるかな」。その発言者はリスナーか?

 

ねえ
通信衛星ぐるりと回って
裏側のきみに語りかけてます
表は表で楽しくやってる
それなら裏でもね どう?

 表と裏は分離して同時並行的に存在できるのか。「裏側のきみ」は、純粋に(地球の)裏側に存在しているのか、楽しくやってる「表側のきみ」が居て、その反対側に裏側のきみが存在するのか。

「裏でも楽しまないか」と言われていることからすれば、表とは別に存在すると捉えるのが相当か。

 

聴こえているなら返事して
悪い言葉を言ってみて
表と裏側 2人ずつ
キャストは4名か それ以上

 前項とのつながりを前提とすると、悪い言葉を所望されているのはリスナーである。キャストは4名以上とのことだが、キャストに含まれるのはどの範囲か。

 まず、リスナーが含まれるとするのは素直な理解である。(表の月ノ美兎+表のリスナー)+(裏の月ノ美兎+裏のリスナー)なので、キャストは4名かそれ以上となるわけだ。

 そのような整理で結論づけてもよいのだが、私は「2人ずつ」と「4名かそれ以上」に引っかかった。たしかに、リスナーをキャストに含めるのは不自然ではない。Vの配信はリスナーの投稿やコメントも含めて成立している場合があるからである。それ自体は昔からある議論だ。観客が居なければライブは成立しない。リスナーが居なければラジオは成立しない。その意味で、消費者もまたコンテンツを構成する一要素である。

 一方で、消費者が主役足り得ることはない、と個人的には思う。メインはあくまでもステージ上の彼ら彼女らなのである。

 そうすると、ここで言うキャストとは、全て月ノ美兎のことなのではないか。実は、そのように考えたのが、本記事を書き始めたきっかけであった。この議論は1(3)に繋がる。ウラノミトとは、考えうる月ノ美兎を取り巻く全人格の葛藤と折り合いの付け方を描写した曲なのではないか。

 例えば、バーチャル世界における月ノ美兎の裏表で計二人。そして、バーチャル世界に存在するとして演じられる月ノ美兎というキャラクターと、現実世界の女性Xの関係性を裏表と見ての計2人。それらを合計して少なくともキャストは4人以上。

 ただ、ウラノミトの世界観に、現実世界のなにがしを持ち込んでくるのは違う気もするから、立ち返って月ノ美兎・リスナーの関係性の話だと考えればいいのではないかとも。

 

だしてだして そんな声で
おびきよせて もっと側へ
ムーンライト
不意に醒めて なげて飽きて
いつだってそうだったんでしょ?

 飽き癖のついているのは誰か。「うっとりしちゃってないでよ」と、いつだってそうだったんでしょの振り付けは同じで、画面の向こうの私たちに向かって指が差される。そうすると、飽き性を問い詰められているのは我々リスナーなのだろうか。

 私がVに飽きることは容易に考えられる。それはVだからというわけではなく、そもそもコンテンツとはそういうものだろう。熱心に追いかけていたのにもかかわらず、時には明確なきっかけすらなく、不意に飽きてしまう。そうやって、数々の趣味を乗り換え、また元の趣味に帰ってくることも珍しくない。

 だから「どうせあなたもそのうち飽きちゃうんでしょ?」と言われているのだとしても、あまり違和感はない。一方で、その文脈だと「なげて」は若干異質である。「月ノ美兎を含むVの配信や活動を追いかける」のをなげるというのはしっくりこない。

 では、醒めて飽きるのは月ノ美兎自身なのか? 彼女は自分で自分を戒めているのか?

 

輝き続ける鏡を (あの子)
傷つけるのは許さない (どの子?)
取り引きしようよ 秘密の (倉庫)
爆弾処理班はこちら

 輝いているのは鏡に写った自分なのか、はたまた鏡の向こうに居るあの子なのか。どちらも自分ではあるが、厳密にはどちらも自分ではない。それぞれにまた裏表が存在する。

 Aが鏡を見るとき、そこにはA'が映っている。A'はAの姿を映し出しているものだが、ともすると、Aとは違うBかもしれない。このとき、BがAの裏であるとは言い切れない。そのように考えると、AにはAで裏表があり、BにはBで裏表がある。そうやって、多重構造の人格が形成されたことにより、もはや誰が誰か分からなくなっている節はあるのかもしれない。

 ここまで読んでくれた方がいたとして、きっと私が何を言っているのかよく分からないだろう。私も分からない。それはそれとして、PVで「爆弾処理班はこちら」といいながらキックする姿はボンバーマンっぽくてよかったです。

 

 

 以降は既出歌詞の反復となるが、只野さんが意図なくリフレインを用いるとも思えないので、そこにも何か意図があるのだと思われるものの、現状の私の読解力では解きほぐせそうにない。

 加えて言えば、PVラストでどうして月ノ美兎は顔を背けるのか。素顔=裏を見せないことの比喩表現か。はたまた、見せることができないのかもしれない。ここで言う「素顔」もまた多義的な表現である。VTuberの素顔とは何だ? 私の中では、結局1(3)の議論に舞い戻りそうである。でも、思春期だからアイデンティティが不安定なんです、という結論でも特に問題はない。

 映像にも色々とヒントはありそうだが、受け止めきれていない現状である。本記事は異常であるが、以降にもう少し整理をしていけたらと思う。

 

 

3.補論:ウラノミトを聴いてI-1clubとWake Up, Girls!を思い出した

 初めてウラノミトを聴いた時、衝撃的だったと記事頭で述べたが、その感覚の上澄みだけをシンプルにすくい上げると、以下の通りになる。

 

 

 

 

 

 

 

I-1clubだ!!!!!!!

 

 

 

 

 

 

(1) I-1clubとは

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 I-1clubの楽曲と言えば広川恵一只野菜摘コンビである。諸説はある。戦争になるなら潔く身を引こう。争いはよくない。

 それはそれとして、もしあなたが『Wake Up, Girls!』に触れたことのある人ならば、ウラノミトを聴いて、あの曲とあの曲とが脳裏をよぎったのではないか。少なくとも、私はそうだった。

 

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 とはいえ、Jewelry Wonderlandはアップテンポであり、止まらない未来も朗らかな曲調である。ウラノミトから直接的に彷彿とさせるとは言えないかもしれない。

 しかし、私の頭に浮かんだのは上記二曲だけではない。

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 これまでのI-1club楽曲が溶け合っているように思われた。これはえらいことだ。しかし、曲だけではない。ここに来るまでに、散々よく分からないことを書き連ねたが、ウラノミトを通して描かれるテーマについて、我々はどこかで聞いたことがあるのではないか。そう、『言葉の結晶』である

 

(2)ウラノミト=言葉の結晶論

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全くまとまりませんでした(唐突な幕引き)